主任司祭メッセージ(2020年)

【12月27日 説教】B年「聖家族」

  • 第1朗読 : 創世記15章1~6, 21章1-3節
  • 第2朗読 : ヘブライ書11章8,11~12,17~19節
  • 福音朗読 : ルカ福音書2章22~40節

クマール・プラビン神父

今日は「聖家族の祝日」です。そして、私たちの教会は聖家族に捧げられています。だから今日は、私たちにとって大きな喜びとなる祝日です。聖家族とは、イエス・マリア・ヨセフの家族のことです。この家族は信仰の強い家族でした。聖家族は私たちの教会の模範となっています。私たちが聖家族に倣い、愛の絆に結ばれていくことが出来るよう、このミサのなかでお祈りしましょう。

今日の日曜日は聖家族のお祝いにあたっています。毎年主の降誕の直後の日曜日は、イエス・マリア・ヨセフの聖家族の祝日を祝っています。聖家族の祝日は教会の暦の中では比較的新しいものです。教会や社会の中において家族を大切にすることは重要で、また、教会にとっては家庭内の信仰で信仰が養われることを深く認識するためにこの祝日が定められました。教会へ行くだけでなく、家庭内で私たちの内面的な信仰を強く育てることができるということを教えるために、教会はこの祝日を定めたのでした。第2バチカン公会議の公文書『現代世界憲章』の中に家族・家庭は「小さな教会」であり、「人生を学ぶ学校」という面白い言葉で表現されています。今日の祝日は、イエス・マリア・ヨセフのことを考えるだけでなく、自分の家族はどうかと考えることをお勧めします。

皆さん、昔のことを遡って考えてみますと、日常生活の中で家族のみんなが一緒に食事をする機会が多かったように思われます。しかし、最近では個食や孤食と言われているように、家族で一緒に食事をする機会が少なくなってきました。なぜならば、家族のみんながバラバラな生活時間をおくっているからです。両親は仕事で忙しすぎるので、子どもたちが親たちと何日も顔を合わせないということさえ起っています。

ある親子の話をしたいと思います。父親が仕事を終えて家に帰ってくると、息子が彼を迎えに出て、「お父さんは1時間仕事をしたら、どれくらいお金をもらえるの?」と尋ねました。父親はびっくりして、「あのね、そんなことはお母さんでさえ知らないんだよ。さあ、お父さんは疲れているのだから、気にしないで」と言いましたが、息子は「お父さん、ちょっと教えてよ。1時間にいくらもらっているの?」としつこく聞くので、父親は根負けして答えました。「3,000円だよ。」すると、男の子は今度「じゃ、僕に1,000円貸して」と言うので、父親は大声で叱りつけました。「お前はお金を貸して欲しくて、お父さんがいくらもらっているかの聞いたのか。もう部屋に行って寝なさい。ばかな子どもだ。」しかし、父親は息子にとった自分の態度を反省しました。「息子が何か買う必要があったのだろう。」そこで、息子の部屋に行き、彼に言いました。「もう寝た?」子どもは返事をしました。「ううん、まだ起きているよ。どうして?」「ここに、お前にさっき貸して欲しいと言ったお金がある。」そう言って父親がお金を渡すと、「ありがとう、お父さん」と言って息子は受け取りました。この息子は朝早く起きて、お父さんからもらったお金と自分が貯金しておいたお金を持って、父親のところへ行き、お金を渡しながら言いました。「お父さん、この3,000円をあげるから、お父さんの時間を1時間僕に売ってください。」それを聞いた父親は涙を流しました。

皆さん、この話をどう思うでしょうか。学校を卒業し、社会で働くようになると人は全然違う世界に入っていきます。どれだけの成績を取るか、どれだけ仕事ができるか、と厳しく問われる世界に入っていかなければなりません。時には「あなたは不要だ」と言われてしまう世界です。しかし、家族はそうではありません。あなたに何ができるかとか、私に何をしてくれるからではなく、無条件にあなたがいてくれて嬉しい、と言い合えるのが家族なのです。たとえ病気で働けなくなっても、高齢になっていろいろな介護が必要になっても、「あなたがいてくれてうれしい」と言い合えるのが家族なのです。

私が子どものとき、教会学校でシスターが教えてくれたことを今でも忘れません。「聖なる家族になるために、イエスとマリア、そしてヨセフの聖家族に倣いなさい」とシスターは言いました。ヨセフは愛と慈しみを持って、マリアのうちに実現されている神の神秘を認め、謙遜に彼女を尊敬し、どのように実現されるかを見守りました。マリアはヨセフを愛しながら、謙遜に彼の保護のもとで生きることを承諾しました。ヨセフの愛に支えられ、マリアは神の救いの計画を理解し、受け入れてイエスを大切に育てました。イエスはヨセフとマリアの愛に支えられ、自分のうちに神が置かれた召命と使命の恵みを発見しました。聖家族は神を中心とした絆、神への信仰と信頼、そして希望によってしっかりと結ばれていました。

皆さん、私たちも聖家族の模範に倣い、聖家族の生き方をしっかりと心に留め、少しでもそれに近づくことができるよう祈りましょう。

【12月24日 説教】B年「主の降誕(夜半)」

  • 第1朗読 : イザヤ書9章1~3, 5-6節
  • 第2朗読 : Ⅱテトス2章11~14節
  • 福音朗読 : ルカ福音書2章1~14節

クマール・プラビン神父

クリスマス、おめでとうございます。

2000年前の今日、ベツレヘムで泊まる宿屋もなく、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんイエス様の誕生をお祝いするために私たちはここに集まっています。私たちだけでなく、全世界ではキリスト者であってもキリスト者でなくても、町のいたる所が賑やかで、喜びに溢れる雰囲気が漂っています。なぜ私たちは祝い、喜び合うのでしょうか。なぜならば、神はへりくだって、このみすぼらしい世界にお生まれになったからです。それは神が私たちと同じようになるためです。しかし、神が選ばれたのは無力な赤ちゃんの姿です。神が私たちのためにお生まれになったことを感謝しながら、このミサを捧げてまいりましょう。

クリスマス、おめでとうございます。

例年ならばクリスマス・パーティー、クリスマスコンサート、クリスマスミサの中の聖歌などに思いを馳せ、喜びを持ってクリスマスの集いを計画することができました。しかし、今年は皆さんの健康を守ることを配慮しながらの計画となったため、今年のクリスマスは普段よりもシンプルで静かな祝い方となり、残念で少し寂しい感じがしているかもしれません。しかし、盛大な祝い方であっても、今年のようなシンプルな祝い方であっても、クリスマスの意味「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使たちのよい知らせに変わりはありません。

クリスマスのシンプルな祝い方として、馬小屋の飾りつけは良い工夫だと思います。馬小屋の飾りつけで思い出す出来事があります。インドでのあるクリスマスでした。私の家族がいつものように一緒にご馳走を食べるために、遠いところに住むおばあちゃんの家に集まりました。24日の主の降誕夜半のミサから家に帰ってきて、お祝いムードの中で皆最近のニュースなどについて喋ったりして楽しんでいたのですが、その間おばあちゃんがずっと黙ったまま居間のクリスマスの飾りつけを見回していることに気が付きました。そこで皆は話に加わらないおばあちゃんの体調がよくないのかと心配していると、急におばあちゃんは「ああー」と叫びながら物置に走っていきました。数日前、私たちがクリスマスの飾りを物置から出した時、すべての飾りを居間まで運び込んだと思っていましたが、大事な幼子イエス様を忘れてしまっていたのです。おばあちゃんは大切な幼子イエス様を馬小屋に飾ってからやっとニコニコして皆の話しを聞いたり、楽しく喋ったりしたのでした。やはり馬小屋の幼子イエス様はクリスマスの心を表すために、欠かすことのできない大切な存在だったのです。

皆さん、今日のお祝いの中心も飼い葉桶に寝かせてある赤ちゃんイエス様です。馬小屋に幼子イエス様がいないなら、他の飾りつけは何の意味もありません。皆さんも知っている通り、この赤ちゃんが新たな価値観、新たなメッセージ、新たな生き方によって世界を変容させたのです。この赤ちゃんは、この世と神、地上と天国、現世と永遠との間の接点となりました。この幼子は、完全に「人間」であり、救い主、待望のメシア、神の子です。神は私たちと同じ人間の形となり、私たちを神聖にするために、完全に人間となられたのです。

クリスマスは神の愛を祝うこと以外何ものでもありません。神は私たちをとても愛していたので、私たちと同じような人間になってくださいました。神は私たちを愛していたので、私たちのうちに住まわれました。神は私たちをとても愛してくださっていたので、私たちの魂の糧として、ご自分の血と肉を、パンとぶどう酒の形でお与えくださいました。神は私たちをとても愛していたので、私たちを罪から解放し、御父の愛に立ち戻ることができるように、私たちの代わりに十字架上で亡くなってくださいました。

2000年前にキリストは小さな飼い葉桶に生まれましたが、今年のクリスマス、キリストは私たち一人ひとりの心に新たに生まれます。では、今の私たちの心の状態はどうでしょうか。聖書に書いてある通り「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)自分の心の中に「神を見る」ことができるなら、素晴らしいクリスマスを祝うことになると思います。

子どもたちのある有名な歌があります。「わたしが主に捧げられるものは何だろう。この小さきわたしが羊飼いだったら、子羊を捧げよう。博士だったら、黄金を捧げよう。しかし、このわたしが主に捧げられるものはいったい何だろう。あぁ! そうだ、何もないわたしは自分の清い心を捧げよう。」

この特別な日に神の愛を祝うなら、私たちはお互いに愛し合い、私たちの心を完全に捧げることができます。そうすれば、このクリスマスの喜びを何度も何度も味わい続けることができます。そしてその喜びを周りの人たちにも分かち合いましょう。キリストの喜び、平和、そして愛がいつも皆さんと共にありますように。クリスマス、おめでとうございます。

【12月20日 説教】B年待降節第4主日

  • 第1朗読 : サムエル記下7章1~5, 8b-12節,14b,16
  • 第2朗読 : ローマ書16章25~27節
  • 福音朗読 : ルカ福音書1章26~38節

クマール・プラビン神父

待降節第4週に入り、来週には救い主の降誕を迎えることになります。キリストの降誕を迎える中で、私たちが最も深い信仰を持って迎えることができるよう母マリアが求められています。降誕を待ち望む準備として、マリアの信仰に学ぶことにしましょう。

祭壇前には素敵な待降節の輪が置かれ、4本のロウソクが立っています。今日は待降節第4主日なので、4本のロウソクの火が灯されています。待降節の始まりで説明したように、この紫の1本目のロウソクは「預言者ロウソク」と呼ばれ、「希望」を意味しています。2本目のロウソクは「平和」を表しています。これはマリア様とヨセフ様のベツレヘムへの旅を思い出すために「ベツレヘムロウソク」とも呼ばれています。ピンク色の3本目のロウソクは「喜び」を表しています。これは「羊飼いのロウソク」と呼ばれています。そして、本日は紫の4本目のロウソクに火がつけられており、「愛」を表しています。これは「天使のロウソク」と呼ばれています。

天使ガブリエルがマリアのもとを訪れ、「身ごもって男の子を産む」と語り、マリアは神の救いの計画の協力者になると告げられます。神がマリアを選び、救い主の母となることが知らされましたが、「はい、そうですか」と承諾するには、あまりにも難しい話だったと思います。マリアは最初、人間の立場から納得できる説明を求めました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使はこれに対して、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と答えました。また、天使ガブリエルは神のご計画にマリアが心を開いて受け入れることができるように、「神にできないことは何一つない」と必要な言葉もかけたのでした。この出来事には、マリアが心を開いてご計画を受け入れるか否か、そこにすべてがかかっていました。

私たちの日常の中でも、なぜこんな事があるのだろうか、どうして自分にはこんな事が起こらなければならないのだろうか、なぜこんな事をしないとならないのだろうかと、自分自身に問いかけることが必ずあると思います。その時、自分の思いを神に願って祈ることもあるでしょう。その願いが自分の思うとおりに叶うことは、本当に幸せです。しかし、私たち一人ひとりに神のご計画があります。その計画は私たちに突然訪れます。その知らされた計画によって、自分の能力を疑うこともあるでしょう。皆さん、人間の立場でこの計画を納得することは難しいかもしれません。その時はむしろ、神のご計画に心を開いて受け入れることが必要なのだと思います。

 私にもこのような体験があります。2010年に私の所属する管区で、日本の宣教師として二人の司祭が選ばれました。わたしがそのうちの一人です。管区長が私たちに「あなたたちを日本の宣教師として選びました。この任命を引き受けますか」と尋ねました。わたしの体験は時代も場所も異なりますが、マリアが天使ガブリエルから「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と言われた時と似ているのではないかと思いました。管区長から日本の宣教師として「わたしが選ばれた」と言われたとき、人間の立場からの説明で納得することは難しかったです。説明を聞いて納得して「だから、わたしが選ばれたのですね」と、わたしは受け入れることはできませんでした。むしろ、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と、自分の置かれた状況を飲み込むことはできませんでした。そこでわたしは家族や友人、司祭たちに相談しました。そして、聖堂で静かに祈りました。次の日、わたしは管区長と面接し、「神のご計画なのでこの任命を受け入れます。精一杯私は心を開いて、神に自分を委ねます」と話しました。

 マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」ここにマリアの信仰の深さがあります。「もしかしたら自分の人生を踏み間違えるかもしれない」「自分の一生を棒に振ってしまうかもしれない」などと、恐れや不安を感じながら考えたかもしれません。まだ、これからのことが未知数で、先が見えないのです。それでも彼女は天使ガブリエルのメッセージを信じたのです。この信仰には、「自分が自分でなくなるかもしれない」「世間の人から白い目で見られるかもしれない」「婚約者ヨセフとの間に何が気まずいことが起こるかもしれない」などの不安や心配は消えていませんでした。それにもかかわらず、マリアは神を信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。このマリアの神のご計画の受け入れがこれから先のすべての出来事の始まりでした。最初にみ言葉を受け入れること、これが信仰です。「ヨセフも理解してくれた、周りの親戚も理解してくれた」など、すべてが分かった上での「はい」ではありません。神への深い信頼の謙遜さです。

 救い主が生まれ、弟子たちは主と共に生きて神の国を体験し、聖霊に満たされたキリストの教会が始まり、そして今日、ここに私たちが集っているのも、このマリアの謙遜の一言から始まったわけです。この一言を言えば、すべてが始まります。これを言わなければ何も始まりません。わたしも「はい」を言わなければ日本に来ることはありませんでした。その「はい」には不安や心配はもちろん伴っていました。でも、日本に来ていろいろな体験をさせていただき、「日本に来てよかった」と幸せを感じ、神を信頼し委ねてよかったと思っています。

 救い主の誕生は、私たちが神に精一杯心を開いて自分を委ねる体験を積ませてくださいます。心を開かなければ、神のご計画を受け取ることはできません。これから起こる様々な出来事、その中に込められた神のご計画を、私たちが心を一杯に広げて受け入れていくことができるよう、マリアに倣う決意を新たにしましょう。マリアの言葉をもって、主の降誕の準備をいたしましょう。

【12月13日 説教】B年待降節第3主日

  • 第1朗読 : イザヤ書61章1~2a, 10-11節
  • 第2朗読 : Ⅰテサロニケ5章16~24節
  • 福音朗読 : ヨハネ福音書1章6~8,19~28節

クマール・プラビン神父

本日は待降節第3主日を迎えています。今日の福音で洗礼者ヨハネはイザヤの言葉を使って自分について語っています。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」待降節も第3主日を迎え、クリスマス直前の時にあたり、私たちは洗礼者ヨハネの役割について考え、彼の姿を私たちのイメージとしなければならないと思います。私たちの中には「主である神が共におられます。その事実を受け取って生きるとは、『キリスト』のいのちを生きることです。」キリストのいのちを生きることができますように、ご一緒にお祈りをいたしましょう。

祭壇前には素敵な待降節の輪が置かれ、4本のロウソクが立っています。今日は待降節第3主日なので、3本のロウソクの火が灯されています。待降節の始まりで説明したように、この紫の1本目のロウソクは「預言者ロウソク」と呼ばれ、「希望」を意味しています。2本目のロウソクは「平和」を表しています。これはマリア様とヨセフ様のベツレヘムへの旅を思い出すために「ベツレヘムロウソク」とも呼ばれています。本日はピンク色の3本目のロウソクに火がつけられており、「喜び」を表しています。これは「羊飼いのロウソク」とも呼ばれています。なぜならば、羊飼いはイエス様を最初に馬小屋で見て、喜びに溢れた人々です。この日、司祭は特別にピンク色の祭服を着ます。典礼の中で、ピンク色は「喜び」を表す色として用いられています。

なぜ教会では待降節第3主日を「喜びの日曜日」と呼んでいるのでしょうか。なぜかと言うと、キリストが必ずすぐに来てくださるという大きな喜びを持っているからです。そのことは今日の朗読でも表現しています。第1朗読のイザヤ書は、繰り返し「喜び踊れ」と呼び掛けています。喜びの徴として、乾ききった砂漠の一面が美しい花で覆われる様をイメージします。第2朗読では聖パウロが教えているとおり、「絶えず」「どんなことにも」喜ぶことです。

この大きな喜びを伝えたのは洗礼者ヨハネです。では少し、洗礼者ヨハネについて考えてみましょう。今日の福音では、ユダヤ教の指導者たちが洗礼者ヨハネに「あなたはどなたですか」と質問しています。ヨハネは、自分はイスラエルを救うために来るメシアではないと答えます。「主の道をまっすぐにせよ」と叫んで、メシアが来られることを証ししているだけだと。そしてヨハネは指導者たちに次のように語ります。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」その方こそ、メシアなのです。その方は非常に聖なる方で、ヨハネはその方の履物のひもを解く資格もないと言います。ヨハネは、メシアが近くにおられることを彼らに喜んでほしいと願っていました。しかし、彼らにはメシアが見えなかったのです。

イエス様は私たちの近くにおられます。でも時々、私たちもイエス様を認識することが難しい場合があります。クリスマスの準備に追われて、愛する者の死を悲しんで、あるいは、将来を心配してなどです。私たちは信仰においてイエス様がそこにおられることは分かっているのですが、私たちの間にイエス様の臨在を感じることは難しいのです。

洗礼者ヨハネでも難しかったのです。「わたしはこの方を知らなかった」と彼は言います。しかし、「わたしは彼を見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」「証しする」とは、「証言する」という意味です。「証人」は基本的に自分のことを語るのではなく、見たこと、聞いたことを「証言する」ということが中心です。ヨハネは光について証しするために、「光」について証言するために来たのです。私たちもヨハネの役割を思い起こし、それを私たちのイメージとしなければなりません。

では誰がイエス様の臨在を感じさせてくださるのでしょうか。それは聖霊です。私たちを導いて真理をことごとく悟らせます。聖霊をイエス様は「真理の霊」と呼ばれます。聖霊はイエス様を私たちに現わし、イエス様がどなたであるのかを理解するよう助けてくださいます。ヨハネは自分に質問する人たちが重要なことを見失っていることを彼らに示そうとしました。同様に、聖霊は私たちの目を開き、イエス様が私たちの人生に臨在しておられることを見失わないようにしてくださいます。イエス様は隠れておられません。イエス様は皆がご自分を知ることが出来るよう、私たちに聖霊を与えてくださったのです。これが喜ぶべき大いなる理由です。

聖霊よ、私たちの目を開いてください。今日、イエス様に気づけるよう私たちを助けてください。

【12月6日 説教】B年待降節第2主日

  • 第1朗読 : イザヤ書40章1~5, 9-11節
  • 第2朗読 : Ⅱペトロ3章8~14節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章1~8節

クマール・プラビン神父

祭壇前には素敵な待降節の輪が置かれています。この待降節の輪には4本のロウソクが置かれています。今日は待降節第二主日で、2本のロウソクの火が灯されています。先週説明しましたように、この紫の1本目のロウソクは「預言者ロウソク」と呼ばれ、「希望」を意味しています。本日火が灯されている紫の2本目のロウソクはどんな意味を持っているのでしょうか。これは「平和」を表しています。またこれは、マリア様とヨセフ様のベツレヘムへの旅を思い出すために「ベツレヘムロウソク」とも呼ばれています。

皆さん、待降節とは字のごとく、「待ち望む」期間です。キリストの誕生を待つと同時に、将来における救いの完成を待ち望む心を整えるという意味も含んだ「待つ」です。時間の中に生きている私たちにとって、「待つ」ということは大切なことです。人間にとって意義深いこと、大事なことは時間がかかるからです。私たちは待たされることが多々あります。一番身近なことで言いますと、子どもや孫の成長には時間がかかります。また、病気から快復するにも時間がかかります。ごく日常的な体験を積み重ねながら、その場を「待つ心」を育てる機会にしていくことが私たちには求められます。そのために必要なことは、「神と人間とでは『時間の物差し』が違う」ということを認識しておくことです。神のタイミングの良さと、人間のそれとは大きな隔たりがあります。その「隔たり」は、人間の理解を超えています。つまり、人間の常識では認識できないほどの「隔たり」なのです。

神の救いの業は、途方もない大昔から始まっています。しかし、それは必ず実現します。イザヤの預言から洗礼者ヨハネの時までおよそ600年もかかっていました。そのうえ神が良い時と考えたその時にも、事前にメシアを迎える準備をさせるヨハネを送るほどです。神は用意周到です。

洗礼者ヨハネはイエスが来られるための道を準備したので、しばしばキリストの「先駆者」「先駆け」と呼ばれます。しかし、なぜこのような準備が必要だったのでしょうか。マルコ福音書ではヨハネの洗礼を「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」と呼ぶことによって、一つの手がかりを私たちに与えています。洗礼者ヨハネは罪が人々を神から遠く離れたままに留め置くことを知っていました。そこで、イエス様が来られた時に人々がイエス様を受け入れられるための唯一の救済策を提供しました。それが悔い改めと赦しです。

待降節の間、私たちもまた救い主が来られるのを準備しており、その準備の一部にはやはり悔い改めが関わっています。ヨルダン川にやって来た人々のように、私たちも自分が罪を犯して赦しを必要としていることを知っています。そして悔い改めは、彼らにそうであったように、例え小さな罪についてでも私たちの心を柔らかくし、イエス様とその恵みを私たちが受け入れられるようにします。

私は今日の説教を考えているうちにふと、私の子ども時代のことを思い出しました。クリスマスを前にして、教会の主任司祭は怖い顔をしながら私たち子どもに言っていました。「必ず告解をしなさい」と。それはゆるしの秘跡を子どもに受けさせるための、司祭の「常套句」だったように思います。あの頃は週に一度のゆるしの秘跡を受けないと聖体拝領ができない時代でした。同じような体験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。皆さん、ゆるしの秘跡は現代にも必要ではないでしょうか。

ゆるしの秘跡のプロセスはどのようなものなのでしょうか。悔い改めるには、自分の生活の中で変える必要のあることと、神の掟に従えなかったことの霊的一覧表を作る必要があります。それを私たちは独りでやらなければならないのではありません。聖霊に頼めば、私たちが心の中を調べられるように助けてくださいます。自分の罪がわかるように優しく教えてくださいます。その後、どこで自分が迷い出てしまったのかが分かれば、私たちがどれほど深く恵みを必要としているかが分かるように聖霊は助けてくださいます。そうすると、私たちはもっとしばしばイエス様のもとにいき、もっとイエス様にしっかりと繋がるようになります。神が私たちを罪から清めてくださることを体験すると、私たちは只々神のあふれるほどの豊かな愛と、確かで尽きることのない憐れみに対する感謝と賛美で満たされるのです。

ですから、クリスマス前に必ずゆるしの秘跡を受けるようにしましょう。また、それと共に悔い改めを日々の習慣としましょう。罪が積み重なってキリストとの関係を覆い隠してしまわないように、あらゆる罪から自分の良心を清く保つためです。悔い改めは強靭です。神は私たちを清めるためばかりでなく、私たちの心を和らげ、ご自分の近くに私たちをもっと引き寄せるために悔い改めをお使いになります。

皆さん、私たちが罪を認めて悔い改めができる恵みをお与えくださるように、このミサの中で祈ってまいりましょう。

【11月29日 説教】B年待降節第1主日

  • 第1朗読 : イザヤ書63章16b~17, 19b, 64章2b-7節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント1章3~9節
  • 福音朗読 : マルコ福音書13章33~37節

クマール・プラビン神父

今日から待降節、教会の暦の新しい年が始まりました。教会入口にはクリスマスツリーが飾ってあり、祭壇脇には馬小屋が作られ、祭壇前には素敵な待降節の輪が置かれています。そしてこの待降節の輪のロウソクの1本には灯りが灯されています。この紫の1本目のロウソクは「預言ロウソク」と呼ばれています。イザヤやすべての預言者たちが「わたしたちの贖い主」、主イエス・キリストが来られることを預言しています。ですからこの1本目のロウソクは「希望」のシンボルでもあります。希望を持って待つことを意味しています。

これら全ての飾りつけが待降節の雰囲気を醸し出しています。皆さんもご存知のように、教会ではクリスマス前の4週間を「待降節」と呼びます。この期間は主の降誕を待ち望む時期、主イエスが私たちの世に降りて来られ、私たちの間に存在してくださることを待ち望む時期です。主の到来の出来事には二つの意味があります。一つは、救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、この世に人間として肉体を持ってきてくださった出来事です。もう一つは、主イエス・キリストが裁判官として再び来てくださるという、主の再臨を待ち望むことでもあります。

私たちがこの聖なる期間を迎えるのが今回初めてであっても、20回目であっても、40回目であっても、80回目であっても、安心してください。これからの一か月、天におられる私たちの父は、私たちに恵みを与えたいと心から望んでおられます。今日の第2朗読でパウロが言っているように、神はすでにあなたに恵みを注いでくださっています。「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(1コリント1:7) ですから、神はさらにそれ以上のことをしたいと望んでおられます。私たちに素晴らしい待降節を過ごしてほしいのです。この期間を私たちが神ともっと親しくなり、神をもっと知るための時としてまいりましょう。

今日の福音は、「目を覚ましていなさい」と呼びかけています。それは不安や恐れなしに、喜びと希望を持って待ちなさいと語りかけています。「目を覚ましていなさい」という呼びかけにはどのような意味が込められているのでしょうか。ある教会での出来事をお話ししたいと思います。ある一人の信徒は自分は正しく熱心であると思っていました。一方、司祭に対する不満をいつも言っていた人でした。ある日彼は説教が始まるとウトウトし眠り始めました。説教の最後に司祭は信徒に向かって言いました。「天国に行きたい人はお立ちください。」もちろん皆立ちましたが、彼だけは座ったまま寝ていたのでした。司祭は次に「地獄に行きたい人はお立ちください」と言いました。彼は慌てて立ち上がりました。周りを見れば、立っているのは自分だけでした。そしてミサ後、彼は司祭に向かってこう言いました。「神父様、どんな質問かはわからなかったのですが、あなたと私だけが同じ意見だったんですね。」司祭はミサを執り行っていましたので、もちろん立っていました。

今日の福音でイエス様は私たちに「その時を、気をつけて、目を覚まして」待つように言われています。ここで「目を覚ましていなさい」とは、実際に眠らずに起きていることを意味しているのではありません。主が私たちに求めていることは、日々、神の望みに目を向けながら、自分の欲に囚われず、他の人々のことを大切にしながら働くことです。日常の生活の中で、私たちはどこまで「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっているイエス様を意識しているのでしょうか。待降節の第1主日で毎年繰り返される「目を覚ましていなさい」と呼びかけは、「意識する」ことの重要性を説いています。峰教会で開催している「マインドフルネス瞑想」も、私たちに「日常生活を意識する」ことに注意を向けさせるための瞑想です。

イエス様を見失ってしまうのは、確かに私たちの日常が忙しすぎるからです。けれども、このメッセージの核心はそのような外的な生活環境だけにあるのではないかもしれません。忙しい生活の中で、私たちの心が知らず知らずのうちに雑駁になり、散漫になって、心の底まで染み入るような感動を持てなくなってしまっていることを反省する必要がありそうです。私たちの心がそのような状態に陥るとき、私たちカトリック信者としての信仰も眠り込んでしまいます。自分に何が任されているのか、それを意識していないと、自分の欲のために一時的なことに心が奪われ、表面的なことに目が奪われてしまいます。このような状態は、目を開けていても信仰の上では眠っていることになります。ですから、「目を覚ましていなさい」という今日の福音の呼びかけは、目先のことだけに覆われがちな私たちの日常を揺さぶるように招いているのです。

待降節のこの4週間、祈りにもっと時間を割くことに全力で取り組むことから始めましょう。心を開いて毎日のミサの朗読箇所を読みましょう。聖体礼拝などを通して小教区の活動に参加する機会を得ましょう。自分の信仰を深めるために、霊的読書をして待降節の聖書箇所を勉強しましょう。そして何より重要なことは「希望を持つ」ことです。イエス様をお迎えするこの待降節期間中、神のみ旨に従って働くことができるよう、その力を求めて祈りましょう。

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