主任司祭メッセージ(2022年)| Priest’s Messages (2022)

【11月】本当の敵は誰?(2) | Who is The Real Enemy? (2)

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

(エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節)
前の記事からの続き。。。

私たちには身に着けるべきものがあるのです。キリストに結ばれた生活、信仰生活にお いて身に着けるべきものがある。それなくしては、本当の意味で強くなれない、戦えない。少なくとも人間相手ではない戦いを戦うことができない。そういう武具があるのです。では、私たちがキリストにあって身に着けるべき武具とはなんでしょう。ここには六つの武具について記されています。その一つ一つに目を向けてみましょう。

神の武具を身に着けて

第一は「真理の帯」です。信仰者はまず「真理」をしっかりと身に付けなくてはなりません。真理とは何でしょうか。正しい教え。教会が伝え続けてきた信仰の内容。「教理」と呼んでもよいでしょう。それをしっかり学んで身に着けるということは極めて重要なことです。「信仰は勉強じゃない。」――確かにそうです。しかし、信仰において《体験》を強調する熱心なキリスト者が、学ぶことを疎かにしたがために、悪魔に足をすくわれて道を踏み外してしまった例は、決して少なくはないのです。私たちは真理の帯をしっかりと身に付けなくてはなりません。


鳥と聖家族
鳥と聖家族

(Continuation from the previous article, Ephesians 6: 10-20)

We have something we’re supposed to wear. There is something we’re supposed to put on in our life in Christ, in our every day faith lives. Without it, we cannot be strong in the true sense. We cannot do battle. At least, we cannot fight the fight with our non-human opponents. We have an armor for that. But, what is this armor we are supposed to put on in Christ? In this text it gives a record of six pieces of armor. Let’s take a look at them one by one.

  1. Putting On The Armor Of God

First, there is “the belt of truth.” The believer must first of all firmly put on “the truth.” What is the truth? Sound teaching is the substance of the faith which the church has been faithful in communicating. We could call it “doctrine.” It is extremely important that we learn it faithfully, that we take it in and put it on. “The faith is not studying.” — That is for sure. But, there are more than a few instances of fervent Christians who emphasize “personal experience” in the faith but have been carried off their feet and have deviated from the path, for having neglected to do their studying. We must firmly put on the belt of truth.

【9月】本当の敵は誰? (1) | Who is The Real Enemy? (1)

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙 6章10節)。強くなることがどうして必要なのでしょう。それは戦いがあるから。戦わなくてはならないからです。戦う相手は誰でしょう。続く11節に書かれています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」。戦うべき相手は「悪魔」だと言うのです。戦うべき相手が「悪魔」であるということは、要するに「人間相手に戦ってはならない」ということです。ですから12節にこう書かれているのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」と。「血肉」とは人間のことです。戦う相手は人間ではない。そのことを忘れてはならないのです。人間同士が争っている時、人間同士が戦っている時、憎み合い、傷つけ合っている時、そこで本当に勝ち誇っているのは悪魔なのです。


“Finally I say. Trust in the Lord and be strong in his mighty power!,” (Ephesians 6:10). Why is it necessary to be strong? It is because there is a battle and we must fight it. Who is the opponent with whom we are doing battle? The scripture says in the next part in verse eleven, “So that you may be able to stand up and resist the tactics of the devil.” It says the opponent with whom we’re supposed to be doing battle is “the devil.” To say that the opponent with whom we’re supposed to be fighting is “the devil” means, in effect, “You must not fight with human opponents.” Thus, in verse 12, Paul says, “Our battle is not to take on flesh and blood.” “Flesh and blood” means human beings. The opponent with whom we fight is not human. We mustn’t forget that fact. When fellow human beings oppose each other, when fellow human beings fight each other, when they hate and hurt each other, then the one who is truly elated with success and in triumph is the devil.

【3月】どこにいるのか

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

聖書の始めの方に書かれている「エデンの園の物語」をご存じでしょう。アダムとエバが、禁じられた木の実を食べてしまうという話です。そこで印象深いのが、その後の描写です。このように書かれています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』 彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:8-10)。

 その映像が目に見えるようではありませんか。さわやかな風が吹く中、野の草、花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜んで生きている中、アダムとエバはジメジメとした木の陰に隠れているのです。 神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。それゆえに不安と恐れを抱えながら生きている。なんという惨めな姿か。しかし、これは昔々の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神様が追い求めてくださったのです。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼びかけたように。「アダム」という言葉は「人」という意味です。まさに「人よ、あなたはどこにいるのか」と神は呼びかけておられるのです。そのように、私たちにも呼びかけ、呼び求め、手を伸ばしてくださった。イエス・キリストをこの世に送り、キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。神様があくまでも愛の手を伸ばし続けられた。「人よ、あなたはどこにいるのか。償いの犠牲は屠られた。あなたの罪は赦された。だからもういいのだよ。隠れてなくていいのだよ。わたしの顔を避けて不安と恐れを抱えながら生きていなくていいのだよ。顔を上げて、わたしにまっすぐに顔を向けて生きていいのだよ」。いわばそう言ってくださったのです。それはすなわち、「あなたは罪人だ。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表明です。それがキリストの十字架です。だからヨハネは言うのです、「ここに愛があります」と。キリストの十字架に目を向けながら、「神は愛です」と言っているのです。

そのように神がキリストを通して御自身の愛を現してくださった。十字架によって神の愛を知らせてくださったのです。だから、私たちとしては、その愛を感謝をもって受け入れ、神の愛を信じて生きていくことが重要なのでしょう。それを聖書は「愛にとどまる」と表現しているのです。そのように神の愛を信じて、神と一つになって生きていくのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりです。これが信仰生活です。神の愛を信じ、神の愛にとどまる生活です。

【2月】自分中心の我が儘な信仰生活に留まるならば

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

(使徒言行録 4章1節~22節)

聖ヨセフと幼子イエス
聖ヨセフと幼子イエス

私たちが、聖霊に満たされた信仰生活を求め、神の完全なる支配のもとに導かれ、神の救いの御業のために用いられることを求め始めるならば、神は私たちを御心に従って導かれます。それは、この使徒たちのように、時として思わぬ困難や問題の中に導かれることであるかも知れません。また、既に、様々な厳しい状況におかれている人は、ペトロにおいてそうであったように、そこが証しの場となり、神の御業が現れる場となり得るのだ、ということを知っておく必要がある のです。

 ペトロとヨハネは権力者たちの敵意の中へと導かれました。使徒たちは真ん中に立たせられ、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問されました。そこで、ペトロは聖霊に満たされて語ります。 確かに聖霊が彼の内に生きて働いておられるのです。それは初めて訪れた危機でありますが、神の力と愛と喜びに満ちた使徒たちが証しをし、癒された人もそこにおいて無言の証しをなしている。なんと神の栄光に満ちた場面でしょうか。もし、私たちが、自分中心の我が儘な信仰生活に留まるならば、困難は少ないかも知れませんが、神の現実に触れることも、神の力強い救いの御業を見ることも、神の栄光を拝して真の喜びを与えられることもないでしょう。もし、川の浅いところで自分の足で歩き回って遊んでいるだけのような信仰生活であるならば、命の水の大きな豊かな流れを経験することはできないだろうと思うのです。それが私たちの求めていることなのでしょうか。もしそうならば、それはとても残念であり、悲しむべきことです。私たちはいったい何を願い求めるべきなのか、よく考えたいと思うのです。

神の霊はペトロに知恵と必要な言葉を与えました。このことは、既にイエス様御自身が語っておられたことです。ルカによる福音書において、イエス様は後のことを見越して次のように語っておられます。「…人々はあなたがたに 手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。(ルカ 二一・一二‐一五)」その言葉は、ペトロの上に実現しました。

聖霊はペトロたちに驚くべき大胆さを与えられました。私たちは、使徒言行録がルカによる福音書の続きであることを知っています。福音書におけるペトロと、ここに見るペトロの姿とは、いかに異なっていることでしょう。六節 に「大祭司アンナスとカイアファ」の名前が記されています。彼らの名前は、キリストが十字架にかけられるその前夜の出来事を思い起こさせます。イエス様が捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペトロは後を遠く離れてついて行ったのでした。中庭に入って行った彼をある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた(ルカ二二・六一‐六二)」と記されています。これが生来のペトロだったのです。しかし、本日の聖書箇所に見る彼は違います。彼は変えられました。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名 によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

私たちもそのような証し人とならせていただきたいと思います。そのことを共に祈り求めて、祈り続けていきたいと思います。もちろん、ことさらに困難な状況を願い求める必要はありません。ただ神の導きに身を委ね、どのような場面においても聖霊に満たされ、平和と喜びと聖霊の力をもってキリストを証しすることのできる者とならせていただきたいと思うのです。

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