主任司祭メッセージ(2021年)

【12月】ここをたち、

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

そこで彼はどうしたでしょうか。飢饉の中で下の息子は我に返ったのです。そしてこう言ったのです。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと。』」ここで大事な点は、彼が放蕩の生活を反省したということではありません。そうではなくて、彼が父のもとに帰ろうと決心したということです。方向を変えたということなのです。そして実際に方向を変えて歩き始めたということなのです。一歩を踏み出したのです。

 しかし、人間の決心と行為がすべてなのではありません。「まだ遠く離れていたのに」と書かれています。そうです彼はまだ遠くにいたのです。家の近くまで来ていながら、父と子との間には、まだ長い長い距離があったのです。それはそうでしょう。自分で言っている通り、もう息子と呼ばれる資格はないのですから。では、その距離を誰が埋めたのでしょう。この息子ではありません。父親だったのです。そうイエス様は言っています。父親が息子を見つけたのです。父親が憐れに思ったのです。父親が走ったのです。そうです、父親が走ったのです!そして、首を抱き、接吻しました。この父親によって、その距離がゼロになったのです。そして、父親は僕たちに命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい」父は帰って来た息子を息子として扱います。そこで息子は本当の意味で息子となったのです。

 そのように、最終的に人と神との距離を埋めてくださるのは神御自身です。父が子に走り寄ります。神が人に走り寄ります。これを語っているイエス様には分かっているのです。御自分が地上に存在していることこそ、まさに人間に走り寄る父の姿を映し出しているのだということを。父なる神がキリストを世に遣わされたとはそういうことでしょう。私たちの罪のために独り子を十字架にかけられたとはそういうことでしょう。私たちが何かをしたからではなく、神が打ち立てられたキリストの十字架のゆえに、十字架による罪の贖いのゆえに、距離はゼロとなるのです。私たちはそうして、神に受け入れられて、本当の意味で、神の子となるのです。

【11月】内なる人

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

イエス・キリストを信じる時、聖霊によってその人の内に新しい自分が生まれます。父を呼び求める神の子どもとしての新しい人が生まれます。その「内なる人」は生まれたばかりの時は、いわば赤ん坊です。赤ん坊は弱いのです。ですから、外なる人、以前からの古い人の方が支配的になることがあります。「あんた、クリスチャンになっても、あまり変わらないねえ」などと言われることも起こってまいります。それは新しい人が、赤ん坊で弱いからです。しかし、父なる神は新しく生まれた「内なる人」を強めてくださいます。「その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって」強めてくださるのです。ですから私たちは、いつまでも生まれた時のままの信仰者であることを良しとしないで、内なる新しい人が強められることを真剣に祈り求めるべきなのです。

 では、「内なる人が強められる」とは、具体的にどのようになることでしょうか。信仰者の成長はどこに向かっていくべきなのでしょうか。パウロは祈ります。信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。これが、内なる人が強められるということです。

 先にも申しましたように、単に「精神的に強くなる」ということではありません。信仰によって生まれた新しい内なる人が強くなるということは、愛するようになる、ということです。それは単に心の中の話ではなくて、具体的な生活の話です。愛するということが付け焼き刃のようなものではなくて、あるいはお芝居の仮面のようなものではなくて、植物に喩えるならば大地にしっかりと根を張るように、愛が生活の中に根を張っていくということでしょう。あるいは建物に喩えるならば、愛が外側の飾りではなくて、土台のようになるということでしょう。「愛にしっかりと立つ」とはそういうことです。

 さて、そうなりますと、聖書をお勉強して少しでも良い人になりましょう、というような次元の話ではないことはすぐに分かります。まさに神様が私たちの心を変えてくださるのでなければ成り立たない。私たちの心にキリストを住まわせてくださるのでなければ、そのような生活は成り立たないのです。そうです。だから祈り求めるのです。心にキリストを住まわせてくださる、聖霊のお働きを祈り求めるのです。神様が、その霊により、力をもって、私たちの内なる人を強め、成長させてくださることを祈り求めるのです。

【10月】行いと信仰

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

 息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。( ヤコブの手紙2:14-3:4)

パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙において「信仰によって義とされる」ことを強調していますが、ヤコブは「行いによって義となされる」と強調したと誤解され、パウロと対立していると思われてきました。 実は信仰と行いについてのヤコブの説明では、信仰は行ないの内的源を指しているのです。心の奥底に信仰があれば、必ず外にも現れるのです。これは神さまに対する態度です。コインの表と裏の関係です。

>  パウロもガラテヤ5:6で、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言っています。二人の見方が支え合っています。20節の意味をもっと簡単に言うと、信仰は良い行いの原動力で、信仰による良い行いは本当のキリスト者の証拠だと言うことです。

>  パウロとヤコブは二人ともアブラハムの事を例えにしていますが、パウロはアブラハムが信仰によって義とされたと述べ、ヤコブはアブラハムの行いが義とされたと証拠を挙げています(21節)。だから、24節に「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と書かれています。ヤコブは救いの中に信仰は重要なことを否定していませんが、「信仰だけによるのではありません」と言っているのです。説明すると、信仰が唯一の存在ではない、本当の信仰は単なる真理の理解だけではない、必ず行いを伴うのだ、ということなのです。これは本当の信仰から自然に生じる行いです。 最近、数年の間に、世界中の教会が、なぜ教会の成長はマイナスの状態になっているかと言う課題について、広く反省、検討を行ってきたと思います。信仰が弱いのか、行いがないのか、信仰の知識が不足なのか、世俗化したのか、神さまを物質に換えたのか、いつの間にか個人主義になったのか、礼拝が形式化したのか、あるいは教会の信徒が形式的な信徒に変わったのか、などいろいろな問題がありますが、一体今日の教会はどうなっているのでしょうか。多くの人は心の中に理想を満たします。しかし、行ないは余り外に現れてきません。

> ヤコブが23節において、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」と言っているとおりです。

> 中国の昔の哲人王陽明さんは「知行合体」と主張しましたが、現代の王陽明 さん(すなわち教会の牧師)は「知行不合体」と反対の主張をしているかのようです。今の人は依然として「分かるけれども行わない」からです。使徒パウロの、「信仰によって義とされる」と言う教えを、ヤコブは、「信仰は行ないの証拠が必要」と補っています。つまり、神さまに栄光を帰する信仰生活は、内なる真の信仰が、表の行動として現されて完成するのです。

> ヤコブは信徒へ教える時、信仰の父と言われるアブラハムの行った信仰の実例を引用しました。アブラハムの信仰と行ないの二つから「知行合体」と言う実践を見ることができます。だから、私たちは「知」的クリスチャンだけではなくて、同時に実際に行動するクリスチャンにならなければなりません。どちらのほうが大切かと問われれば、今日の多くのクリスチャンは両方とも同じくらい大事だと答えると思いますが、実際には知的信仰だけを強調する教会もあるし、行ないだけを強調する教会もあります。実は理論的信仰を大事にし、実践的な行いも大切にするのが、本当のクリスチャンなのです。

> 今日の教会を実際に見ると、隠れた危機的試練の中に存在しているのではないかという感じがします。ヤコブは1:22、23に、「御言葉を行なう人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどの様であったか、すぐに忘れてしまいます」と言っています。今日数多くの教会が世俗の影響で形式的になっています。典型的な御言葉を聞くだけの群れです、しかし、口だけなら従順に出来ます。しかし、行動に移すことが出来ない(必要ないと思っているかも知れません)。大勢の人々が教会に来ますが教会に残りません。何十年毎週教会へ通っているけれども、聖書の基本的知識が分からない人が少なくないし、教会と世界がつながっているということも分からない人がいます。

> 人々は健康な人になりたがっていますが、慢性病をまず癒さなければ、新たな健康は手に入りません、御言葉を聞くだけではなくて、本当に御言葉に従って行なうことが大切なのです。

【9月】急いで…!!!

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

主の御言葉には力があります。主の御言葉は、ザアカイという男の人生に、決定的な変革をもたらしました。彼の上に起こったその驚くべき出来事を、主イエスは次のように表現しています。「今日、救いがこの家を訪れた」と。救いが一人の人に訪れました。救いが一つの家に訪れました。救いは、主の御言葉を通して訪れました。私たちは主がいったい何を語られたのか、その言葉はザアカイに何を意味したのか、そして、その御言葉は私たちに何を意味するのか、ということを考えながら、聖書箇所を御一緒に味わいたいと思います。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい」。主はそうザアカイに呼びかけました。私たちは、第一に、主がザアカイの名を呼ばれたことに心を向けたいと思います。何よりもまず、それは主イエスがザアカイを、名前を持つ一人の人間として関わられたことを意味します。それは人々の関わり方と対照的です。人々はザアカイのことを何と呼んでいるでしょう。彼らはザアカイを「罪深い男」と呼んでいるのです。「罪深い男」は彼の名前ではありません。

彼は、徴税人の頭でした。徴税人になるためには、間接税の徴税請負の権利を持たなくてはなりまん。その権利を買うにはお金が必要です。一般的にその権利はかなり高額で競り落とされたそうです。そうまでしてその権利を得るのは、儲かるからに他なりません。徴税人の職務には、あらゆる不正が入り込む余地がありました。それゆえに、彼らは金持ちになれたのです。しかし、それと引き替えに、彼らはユダヤ人としてのアイデンティティを失いました。異邦人のために同胞から税金を取り立てて私腹を肥やす徴税人たちは、もはや神の民とは認められませんでした。人々は彼らを罪人と呼んだのです。それがザアカイであるか、他の人間であるかは問題ではありません。「徴税人」イコール「罪人」なのす。

しかし、主イエスはザアカイを「徴税人よ」と呼んだのでも、「罪人よ」と呼んだのでもありません。「ザアカイよ」と呼んだのです。主にとってザアカイはまずザアカイなのであって、徴税人であることや罪人であることが先に来るのではないのです。そうです、主は私たちにそのように関わられるのです。私たちは、様々なレッテル貼りをします。善い人、悪い人、寛容な人、偏狭な人、右よりな人、左よりな人、日本人、外国人…。そうやって、自分自身をも他人をもそのレッテルに従って分類して扱います。しかし、主イエスにとって、私たちはまず、名前を持つ一人の固有の人間なのです。他の代理がきかない、一人のかけがえのない存在なのです。そのように関わられる主の呼びかけを、ザアカイはここで耳にしているのです。

そしてさらに、主が「ザアカイ」と名前を呼ばれたことは、主御自身がザアカイを捜し求めておられたことを意味します。もちろん、《ザアカイが》主イエスを求めていたことは言うまでもありません。彼は「イエスがどんな人か見ようとした」と書かれています。いくら背が低かったとはいえ、群衆にさえぎられて見えなかったとはいえ、大のオトナがいちじく桑の木の登るというのは異常です。彼は金持ちです。悪名高いという意味にせよ、彼は有名人です。そのような彼が何かをすれば自ずと注目が集まります。嫌われ者がアホなことをすれば、嘲りの対象となることは間違いありません。しかし、それにもかかわらず、彼は木に登ったのです。

それは彼の求めがいかに強烈であったかを示します。彼にはどうしても主イエスが必要だったのです。たった一目見るだけでもいい、それでもいい。それほどに主イエスを必要としていたのです。しかし、その彼が出会った驚くべき言葉は、「ザアカイよ」という言葉でありました。こちらが見ようとしていたのに、主イエスのほうが目を留めてくださったのです。こちらが主イエスを知ろうとしていたのに、主イエスのほうが既に知っていてくださったのです。こちらが求めていたはずなのに、それよりも前に、主イエスが捜し求めていてくださったのです。主イエスは、失われたものを捜して救うために来てくださったのです。そして呼びかけに続いて、さらに主は言われました。「急いで降りて来なさい」。主はザアカイを知っていました。彼が徴税人であることも知っておられたことでしょう。しかし、主がザアカイに向かって言ったのは、「生活を改めなさい」ということでも、「これまでの不正を全て償いなさい」ということでもありませんでした。主は「急いで降りてきなさい」と言われたのです。

 ザアカイが急いで降りて来るのは、まず主イエスのみそば近くに来るためです。ザアカイは「イエスがどんな人か見よう」としておりました。木から降りて、主イエスの近くに行かなくてはなりません。そうです、主は私たちに「降りて来なさい」と言われます。上から眺めるようにして、「イエスとは何者か。神とはなんぞや。信仰とはなんぞや。救いとはなんぞや」と、関心を持って目を向けることも大事かもしれません。しかし、それ自体は何ら救いをもたらすことはないのです。もっと大事なことは、主イエスの近くに行って、主と向き合うことです。話しかけることです。ザアカイがしているように、「主よ」と言ってみることです。祈ってみることです。木の上と下で対話は成り立ちません。木から降りなくてはなりません。

さらに言うならば、ザアカイが急いで降りて来るのは、主イエスを家にお迎えするためです。主はこう言われたのです。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。主を家にお迎えしなくてはなりません。家とは生活の場です。そこにはその人の人生があります。その人の罪もあります。ザアカイの家には、不正によって蓄財した富があったことでしょう。そこに主イエスをお迎えしなくてはなりません。きれいにしてからではありません。汚いまま、罪にまみれたまま、ともかく主イエスを家にお迎えしなくてはなりません。生活の中に、人生の中に、主イエスをお迎えしなくてはなりません。

そして、主を家にお迎えするのは、主との交わりのために他なりません。主が「泊まりたい」と言われるのは、ただ「宿をかせ」ということではありません。ザアカイは主と共に食卓に着くのです。主と共に食事をします。主と語り合います。主と共に時を過ごすのです。信仰生活とは、主イエスを知る生活です。それは単に知的に主を知る生活ではなく、主と共に食事をし、主と共に時を過ごす、命の交わりの生活に他なりません。そのことを良く表しているのは、この主の日の礼拝です。私たちはこの場所で、主イエスと共に食事をし、主との交わりを楽しみ、主と共に時を過ごすのです。私たちの週日の生活は、この場所に起こっていることの延長なのです。

救いがこの家を訪れた

 その結果、ザアカイに何が起こったでしょうか。ザアカイはこう言い始めます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。これは主イエスとの交わりがもたらした実りです。命が豊かに通い始めた時、枯れたように見えた木に、再び新芽が現れ、青々と葉が茂り、そして豊かな実がみのったのです。

その実りとは何でしょう。他者と共に生きられるようになった、ということです。彼はそれまで貧しい人のことなど考えたこともなかったに違いありません。彼はそれまでだまし取られた者の痛みなど考えたこともなかったに違いありません。しかし、今は違います。主イエスとの交わりが生きたものとなった時、他者との交わりも生きたものとなったのです。彼は決して、神だけを知り神だけを愛する敬虔な人にはなりませんでした。彼は隣人をも知り、隣人をも愛する人となったのです。彼は神の民として生きる者となりました。これこそが神の救いの現れです。救われた人の姿です。「今日、救いがこの家を訪れた」。

そして、救いは私たちの上にも訪れます。主の御言葉を通して訪れます。なぜなら、主イエスは失われたものを捜して救うために来られたからです。主は今日も、失われた現代のザアカイに語られます。「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。

【8月】司祭職と司祭の独身制 (Priesthood and Priestly Celibacy) 

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

「召命、すなわち、神の召し出しとは何でしょうか。それは、恵みの内なる呼びかけであり、種のように心に落ちて、その中で育まれます。」ヨハネ・パウロニ世

神から司祭職に呼ばれていると感じた人は、広い心でこれに応えなければなりません。今日、いわゆる現代の世代は、この世の楽しみに捕らわれて、神からの呼びかけの価値を分からずにいます。この世は、物質主義を追求して、神からの呼びかけは無視されています。ここでは、司祭職の意義を理解しない若い人たちの考えを、特に念頭においています。若い人たちは、司祭職に好感をもっていますが、独身制となると、困惑し、そのために、神からの呼びかけに興味を失います。ここでは、司祭職と司祭の独身制に光を当てたいと思います。

聖ヨセフと幼子イエス
聖ヨセフと幼子イエス

司祭職

「毎朝、我々司祭は、両手にキリストを、我々を聖なるものにしてくださるために その血管から血を流し、その目から涙を流し、その体から汗を流してくださった方を持ちます。我々がいかにその愛に燃え上がるかによって、他の人にもその愛が燃え広がっていくのです。」神のしもべ フルトン・J・シーン枢機卿

司祭職は、司祭が何をするかではなく、司祭が何であるかといえます。

司祭は神の御言葉を宣ベ伝えるべく、叙任されています。司祭は、まず、秘跡、特に、聖体の秘跡、すなわちミサを執り行うことを通じて、イエス・キリストの福音を宣ベ伝えます。聖体は、我々の信仰の源にして頂点であり、日ごとの聖体の祭儀は、司祭の生活とその職にとって中心となるものです。

司祭の独身性

「司祭の独身制は、輝かしい宝石として、何世紀もの間、教会によって守られてきており、人の様子、この世の状態が、これほど根底から変わってしまった我々の時代においても、その価値は、減じられていない。」教皇パウロ六世

司祭職への召命は、必然的に、神の国のために、同じく純潔の独身の人生への招きを伴います(マタイ福音第19章12節)。その場その場の楽しみに没頭している雰囲気にあって、多くの人は、独身制を贈り物と理解することが難しく、そのため、司祭職への呼びかけを理解しようと苦悩しています。この世の人々は、独身制を、それとして受け取られるべき贈り物としてというより、堪え忍ぶべきものとみています。捧げられたものとしての独身は、司祭をキリストとより密に結びつけます。というのも、司祭はより完全にその花嫁、すなわち教会への愛と誠実さを表すことができるからです。ご自身も独身を貫いたイエスは、その体、すなわち、教会のために、ご自身のすべてを差し出されました。司祭が、永遠の、至高の祭司であるイエス・キリストと一体となり、自分のいずれの部分をも、霊魂の救いと 教会の栄光のために、父なる神に差し出すというのは、なんと美しいことでしようか。教皇パウロ六世は、いみじくも、「独身制への招きは、愛に突き動かされた人生の、希で、とても意味深い例証であるし、また、そうあるべきだ」と指摘されました。独身の生活は、孤高でいることを可能にします。夫と妻は、一緒にいることで、孤立を分かち合っています。一方で、司祭にとっては、その孤立は、神と向き合うことで満たされます。すなわち、司祭は、孤高の場に、神を招き入れるとき、決して孤独ではないのです。そして司祭は、神と隣人への愛の生活を送るのです。司祭に独身男性として生き、愛を実践するベく呼びかけられる主との密な関係は、とても深く、またパーソナルな(personal、人格的な)ものでもあるので、それがどのようにやってきて、どのように聞こえたのかを表現することは困難です。その主との密な関係から、その体、すなわち、教会の信者への愛と、彼らすべてにとっての「もうひとりのキリスト」となる司祭の感性が高まるのです。

【7月】いつまでも残るものは・・・

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

高い場所に立った時、人前でスピーチしなければならない時、体調が悪く病気を疑う時等、人により恐れを感じる場合は様々ですが、しかし、誰もが共通に感じる恐れのひとつは、失うことに対する恐れではないでしょうか

持っていたものを失う、愛する人を失う、また、当たり前にできていたことができなくなると、今日よりも明日は、さらに悪くなるのではないかと否定的になり、心が縛られてしまうものです。仕事をしている人は、いつしかそのポジションを失います。リタイヤしなければならない時もくるでしょう。成功を収め、称賛されている時はいいのですが、それを受け続けることは困難で、自分の上にあった称賛や栄誉が、他の人のものになる時があるのではないでしょうか。また、私たちは、確実に年を重ねています、年を取ると言うことは、失うことを意味するのです。体力を失う、聴力や視力を失う、熱意や夢を失う、愛する伴侶や友を失う、そして最後には自分の命を失う、‥‥。年を取ることが避けられない以上、この失う恐怖は、 誰にでも襲ってくるものなのです。

失うことに恐れと不安を感じる私たちですが、この聖書に書かれているいつまでも残るものを持つことができるのです。

最初の信仰とは、信頼できるもの、信頼に足るもののことです。私たちが椅子に座る時、ほとんどの場合、リラックスしている状態だと思います。それは、この椅子は壊れないと信頼しているからです。もし、この椅子は壊れるかもしれないと思っていたら、座っている状態でも足腰に力が入り、リラックスはできないでしょう。聖書に記されている神様は、この天地を創造し、人間をひとりひとり目的をもって個性的に創造されました。この神には、間違いはなく、全てのことには意味があり、私たちを愛し、導いておられます。人生において予期せぬ出来事が起こったり、何故と思う時がございませんか。また失ってしまうことがあっても、信頼できるこのような神様を知っているなら、心は、穏やかではないでしょうか。信頼に足るものをお持ちでしょうか。力を抜いて、リラックスできる空間が、すなわち、信頼に足るものが必要ではないでしょうか。その時に、失う恐れから解放されるのです。

いつまでも残る希望も、また失う恐れに対して有効なものです。病院に勤めておられる方が、「早く元気になりましょうね。」と患者さんを励ましたそうです。すると、その方は、こう答えたというのです。「私は、退院しても家族はいないんです。」「退院しても仕事がないんです。」この方に必要なものは、良い薬だと思います。また優れた治療でしょう。しかし、最も必要なものは、「希望」ではないでしょうか。

聖書には、人生の終わりに天国があることが記されています。もし、そのゴールが明確に分かっていれば、例え、今が暗くても、雨が降っても、この道はあの明るい町、そう天国に繋がっていると分かっているなら、恐れはなくなるのではないでしょうか。例え、失うことがあっても、天国という失うことがない希望があるのです。

神の子イエスキリストは、私たちの罪の身代わりとなるために人の姿をとって、この世に下ってこられました。その生涯において何一つ悪いことはなさいませんでした。しかし、十字架で罰を受けられて、血を流し、死なれました。彼は悪いことはしませんでしたから、自分の罪のために死んだのではありません。あなたの罪のために、身代わりとなって死なれたのです。しかし、キリストは三日目に死からよみがえり、今も生きておられます。このことを信じる時に、私たちの罪はゆるされ永遠の天国に入ることができるといういつまでも残る希望を持つことができるのです。この世の命は、いつか失います。今、暗い道や雨が降っている時かもしれません。しかし、ゴールが分かっているなら幸いであり、失う恐れから解放されるのではないでしょうか。

最後に、失うことがあっても、いつまでも残る愛があるのです。人は、誰しも愛されたいと思うもので、認められていたいのです。しかし、これだけの稼ぎがある、これだけの人脈がある、これだけの能力や経歴があると自分にあるもので認められているなら、それを失うことの不安、失った時の絶望感は破壊的となるのです。

聖書の中で、神様がこのように言われています。「私は、あなたが白髪になって歩けなくなっても、私があなたを背負う」。神様は、あなたが持っているものに価値を見い出し愛しているのではなく、あなたという存在をありのまま愛されているのです。この愛は、いつまでも残る愛なのです。

失わないようにと努力することは大切なことです。しかし、それと同じ程度に、いやそれ以上にいつまでも残るものを持っておくことが大切です。

たとえ私に、異言で話す賜物があり、また、天と地のあらゆることばを話すことができても、愛がないならただの騒音にすぎません。 同様に、預言(託された神のことばを語る)の賜物があり、あらゆることに通じていても、また山を動かすほどの強い信仰を持っていても、愛がないなら、何の価値もないのです。  そして、自分の財産を全部、貧しい人たちに分け与えても、また福音を宣べ伝えるために火あぶりの刑を受けても、愛がなければ、何の価値もありません。

愛は寛容であり、親切です。愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。  決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いら立たず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても気にとめません。 決して不正を喜ばず、いつも真理を喜びます。  愛は、どんな犠牲をはらっても誠実を尽くし、すべてを信じ、最善を期待し、すべてを耐え忍びます。

 神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。しかし、愛は永遠に続きます。預言すること、異言で語ること、知識などの賜物は、やがて消え去ります。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているものは愛です。

【5月】変化は自分の内側から始まる

変化へんか自分じぶん内側うちがわからはじまる

カプチンかい司祭しさいのおはなしをしたいとおもいます。

皆様みなさまよくごぞんじかとおもいますが、ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿すうききょう(Fr. Raniero Cantalamessa, OFM Cap.)がいま、バチカンで教皇様きょうこうさま枢機卿すうききょう説教せっきょうおよび黙想会もくそうかいおこなっております。この神父様しんぷさまのおはなしはとてもふかく、わかりやすいものです。

 ある、カンタラメッサ枢機卿すうききょうが、黙想会もくそうかい終了後しゅうりょうごバチカンから自分じぶん修道院しゅうどういんもどられたとき、カプチンかいの同じ仲間なかま司祭しさいから、「あなたは、バチカンで枢機卿すうききょう説教せっきょうをなさっておりますが、あまり回心かいしんしたようにはおもえませんね。」とわれました。カンタラメッサ枢機卿すうききょうはこうこたえました。「わたしながあいだそうおもっていました。いくら準備じゅんびして説教せっきょうをしてもだれも変わらないと。でも、いまはそうおもいません。今は自分じぶんわるために説教せっきょう準備じゅんびしています。自分じぶん自身じしん説教せっきょうをしています。わたし自身じしんえたいとおもっています。」とこたえました。

 アシシのせいフランシスコもカンタラメッサ枢機卿すうききょうおなじように、神様かみさまより教会きょうかいてなおすようにといわれたとき外側そとがわ建物たてもののことだとおもって、みんなといしあつめて教会きょうかいをなおしました。しかし、のちに建物たてもののことではなく、ひとこころ神様かみさまかうようになおしていくことだとかんじました。それには、まず、自分じぶん自身じしん神様かみさまかわなければ、ひとこころ神様かみさまかうようになおすことはできないとづきました。

 自分じぶん以外いがいひとえるのではなく、自分じぶん自身じしんわること。これがすべての模範もはんとなることだとおもいます。

現在げんざいなかにおいて、神様かみさまもとめるひとはたくさんいるとおもいます。しかし、現実げんじつ若者わかもの教会きょうかいばなれ、あたらしい信徒しんとえない、召命しょうめいすくない、教会きょうかい魅力みりょくがなくなっている、ということがきています。これはどういうことなんでしょうか?

 わたしからみると、教会きょうかいないにおいて、自分じぶん自身じしんえるための模範もはんとなるモデルがえたら、いま状況じょうきょう一歩いっぽでも前進前進させることができるのではないでしょうか。自分じぶんそとではなくうちえることが大事だいじだとおもいます。

ナイジェリアの枢機卿様すうききょうさまは、なぜわかひと司祭しさい、シスターになるひとすくなないのか?自問じもんをしていました。子供こどもすくないのがおも理由りゆうかとおもっていました。しかし、マザーテレサの修道院しゅうどういんったとき、マザーに「なぜ、教会きょうかい司祭しさいやシスターになるひとすくないのでしょうか?」と質問しつもんしたところ、マザーは「わたし修道会しゅうどういんではそういうことはありません、むしろシスターの志願者しがんしゃはたくさんおります。」との返事へんじでした。これに枢機卿すうききょうさまおどろき、「これはどういうことだろう?」とそのときはわけがわからなかった。バチカンにかえったのちにマザーテレサのった言葉ことばわたし修道会しゅうどういんではそういうことはありません。むしろ、シスターの志願者しがんしゃはたくさんおります。」の意味いみがつきました。調しらべてみると、マザーテレサの修道会しゅうどうかいは108の国にひろがっていました。それはやはり、マザーテレサがキリストの模範もはんとしてモデルケースとしてそこにいたから、みながそこにあこがれたから志願者しがんしゃえていったのだと枢機卿様すうききょうさまづいたのでした。

マザー自身じしんも、自分じぶん修道院しゅうどういんからでて、自分じぶん自身じしんをかえることでキリストとともにあゆみ、みな模範もはんとなりました。わたしたちもできるだけ、自分じぶんえていけば模範もはんになることができるとおもいます。


ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿すうききょう(Fr. Raniero Cantalamessa, OFM Cap.): 1934年7月22日にまれました。イタリアのカプチン・フランシスコ修道会しゅうどうかい司祭しさいであり、神学者しんがくしゃです。1980年に教皇きょうこうヨハネ・パウロ2によって教皇きょうこう公邸かんてい(Papal Household)の説教師せっきょうし任命にんめいされました。公式ウェブサイト

マザー・テレサ(Mother Teresa): 1910年に現在げんざいのマケドニア・スコピエまれました。学校がっこう教育きょういくおこな女子じょし修道会しゅうどうかい入会にゅうかいしました。インド・コルカタで教員きょういんをするなか同地どうちのよりまずしい人々ひとびとはたらびかけをけ、こうした活動かつどう専心せんしんするようになりました。1950年に「かみあい宣教者せんきょうしゃかい(Missionaries of Charity)」を創設そうせつし、長年ながねんもっと過酷かこくまずしい人々ひとびとのために世界中せかいじゅうはたらき、その後継者こうけいしゃたちをそだててきました。 1997年にくなったのち、2003年に福者ふくしゃ、2016年には聖人せいじんれっせられました。公式ウェブサイト

アジット・ロドリゲス 神父
Fr. Ajit Rodrigues, OFM Cap.

カプチン会の司祭のお話をしたいと思います。

皆様よくご存じかと思いますが、ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿(Fr. Raniero Cantalamessa, OFM Cap.)が今、バチカンで教皇様、枢機卿に説教および黙想会を行っております。この神父様のお話はとても深く、わかりやすいものです。

鳥と聖家族
鳥と聖家族

 ある日、カンタラメッサ枢機卿が、黙想会終了後バチカンから自分の修道院に戻られたとき、カプチン会の同じ仲間の司祭から、「あなたは、バチカンで枢機卿に説教をなさっておりますが、あまり回心したようには思えませんね。」と言われました。カンタラメッサ枢機卿はこう答えました。「私も長い間そう思っていました。いくら準備して説教をしても誰も変わらないと。でも、今はそう思いません。今は自分が変わるために説教を準備しています。自分自身に説教をしています。私自身を変えたいと思っています。」と答えました。

 アシシの聖フランシスコもカンタラメッサ枢機卿と同じように、神様より教会を立てなおすようにといわれた時、外側の建物のことだと思って、みんなと石を集めて教会をなおしました。しかし、のちに建物のことではなく、人の心が神様に向かうように立て直していくことだと感じました。それには、まず、自分自身が神様に向かわなければ、人の心が神様に向かうように立て直すことはできないと気づきました。

 自分以外の人を変えるのではなく、自分自身が変わること。これがすべての模範となることだと思います。

現在、世の中において、神様を求める人はたくさんいると思います。しかし、現実は若者の教会離れ、新しい信徒が増えない、召命も少ない、教会に魅力がなくなっている、ということが起きています。これはどういうことなんでしょうか?

 私からみると、教会内において、自分自身を変えるための模範となるモデルが増えたら、今の状況を一歩でも前進させることができるのではないでしょうか。自分の外ではなく内を変えることが大事だと思います。

ナイジェリアの枢機卿様は、なぜ若い人が司祭、シスターになる人が少ないのか?自問をしていました。子供が少ないのが主な理由かと思っていました。しかし、マザーテレサの修道院に行ったとき、マザーに「なぜ、教会に司祭やシスターになる人が少ないのでしょうか?」と質問したところ、マザーは「私の修道会ではそういうことはありません、むしろシスターの志願者はたくさんおります。」との返事でした。これに枢機卿様は驚き、「これはどういうことだろう?」とその時はわけがわからなかった。バチカンに帰ったのちにマザーテレサの言った言葉「私の修道会ではそういうことはありません。むしろ、シスターの志願者はたくさんおります。」の意味に気がつきました。調べてみると、マザーテレサの修道会は108の国に広がっていました。それはやはり、マザーテレサがキリストの模範としてモデルケースとしてそこにいたから、皆がそこにあこがれたから志願者が増えていったのだと枢機卿様が気づいたのでした。

マザー自身も、自分の修道院からでて、自分自身をかえることでキリストとともに歩み、皆の模範となりました。私たちもできるだけ、自分を変えていけば模範になることができると思います。


ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿(Fr. Raniero Cantalamessa, OFM Cap.):1934年7月22日に生まれました。イタリアのカプチン・フランシスコ修道会の司祭であり、神学者です。1980年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって教皇公邸(Papal Household)の説教師に任命されました。公式ウェブサイト

マザー・テレサ(Mother Teresa):1910年に現在のマケドニア・スコピエ生まれました。学校教育を行う女子修道会に入会しました。インド・コルカタで教員をする中、同地のより貧しい人々と働く呼びかけを受け、こうした活動に専心するようになりました。1950年に「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」を創設し、長年、最も過酷で貧しい人々のために世界中で働き、その後継者たちを育ててきました。 1997年に亡くなったのち、2003年に福者、2016年には聖人に列せられました。公式ウェブサイト


【4月3日 説教】B年復活の聖なる徹夜祭

  • 第1朗読 ~第7朗読
  • 第2朗読 : ローマ6章3~11節
  • 福音朗読 : マルコ福音書16章1~8節

クマール・プラビン神父

ご復活おめでとうございます。

皆さん、復活徹夜祭はカトリック教会が伝統を伝える上で、最も大切で、最も中心的で、最も豊かな美しい典礼です。本日の典礼の中では壮大な神の救いの歴史が展開されます。

 復活徹夜祭の典礼は4つの部分から構成されています。第一部は光の祭儀です。最初に復活のロウソクに火が灯されます。これはイエス様が悪と罪、死と闇に打ち勝たれて復活していることを表しています。私たちはそれぞれに手に小さなロウソクを持って、復活のロウソクから火を移してもらいます。これは私たちが復活の信仰をいただき、キリストの光を世に輝かせるということを象徴的に表現しています。

 第二部はことばの祭儀です。聖書朗読によってキリストの救いの業を中心に、救いの歴史を記念することばの典礼です。神がこの世の初めから、いつも私たちの救いを望んでおられたことを語る救いの歴史を旧約聖書から朗読します。この朗読が終わると、新約聖書の中から、「主の復活にあずかる洗礼」の意味を述べるローマの信徒への手紙が朗読されます。その後、「キリストは復活された」と述べる福音書が朗読されます。

 第三部はキリストの救いにあずからせる洗礼の典礼です。初代教会からこの日に洗礼が行われてきましたが、洗礼の儀で洗礼式が行われます。洗礼を受ける人がいないときには、参加者が改めて洗礼の約束を更新をします。洗礼は、生涯更新され続けなければなりません。死から復活へ、新しい命への神秘は生涯かかって歩むべきキリスト者の道です。決定的に復活の世界に入るためには、絶えず古い自分に死んで、新しい自分に生まれ変わらなければならないのです。それは生涯の課題と言えます。ですから、私たちはキリストの霊を受け、霊の導きに従い、生涯成長しますと、復活のロウソクから火を移していただき、約束を更新するのです。これはまさにキリストの復活の証人となることを表しています。

 第四部は感謝の典礼です。ここでは、主が死と復活を通して私たちに準備された食卓に招かれます。この祝いを通して、教会共同体はキリストの復活にあずかり、新たにされるのです。

 皆さん、今日、私たちは死んで復活された主キリストに向けて、キリストと共に新しい命にあずかるために集まっています。本日の聖書は、命をただ単に生物学的に見るのではなく、神との繋がりの中に見ます。私たちの命は「神によって生かされている命」である、これが聖書の根本的な見方です。

 「復活」は、神によって生かされている命がイエス様の中に実現していた、イエス様の命は死を超えて100パーセント神によって生きている命になった、ということを表す信仰です。イエス様は人々から排斥され、弟子たちからは裏切られ、民衆から見捨てられ、十字架にかかって死を遂げていきました。それは、傍から見れば、神にも見捨てられたような姿でした。しかし、イエス様は最後の最後まで神に信頼を持ち続け、出会った人々を愛し抜かれました。そのようにして最後の瞬間まで生きたイエス様の命は、決して死で終わるものではなく、死を超えて神との繋がりを完成させていきました。イエス様が生きている間ずっと持ち続けていた神との繋がりは、死によって裏切られるものではなく、死を超えて完成しました。このことを「復活」という言葉でキリスト教は表現しています。

 もう一つの「復活」の面は、イエス様は苦しんでいる人、弱っている人、見捨てられている人に近づき、孤独な人と共にいて、一人ひとりの人間との絆を大切に、その繋がりの中を徹底的に生きられたということです。その繋がりも死によって断ち切られるものではありません。イエス様は、今はもう目には見えませんが、ある意味で目に見えなくなったからこそ、あらゆる時代、あらゆる所にいる人と共にいる方となったのです。それが「復活」のもう一つ意味するところです。

 私は田辺さんというお爺さんから、とても大切なことを学んだことを分かち合いたいと思います。田辺さんは息子さん夫婦の隣に住んでいて、夕食はいつも息子さんの家族と一緒でした。でも、息子さんが会社の転勤で3年間アメリカに行くことになりました。ある日、お爺さんの隣人が夕食を一人で食べている田辺さんを見て、「一人の食事では、とても寂しいことでしょう」と語りかけました。田辺さんは次のように答えたのでした。「いいえ、寂しいということはありません。私は復活したイエス様と一緒に食事をしているのですから。」私は田辺さんの返答を聞いて、なるほど、これがイエス様の復活の意味なのだと深く実感したのでした。イエス様は死者の中から復活したのですから、もはや、時代にも、国にも縛られず、今、ここで、私たちと共に生きているのです。復活したイエス様は、今日、私たち一人ひとりに生きている声で、「恐れるな! 私があなたと共にいる」と語りかけているのです。イエス様は、人生の道を私たち一人ひとりの隣で歩み、旅しています。私たちは決して一人ではありません。孤独や苦しみに出会ったときこそ、この大切な真実を思い起こしましょう。

 イエス様の神との繋がりは死を超えて完成していきました。イエス様と私たち一人ひとりの繋がりも死を超えて完成され、イエス様と私たちの絆も死を超えて完成しました。私たちはイエス様と神との、そして人々との絆を完成させたことを、今日、祝います。イエス様が入っていかれた命にあずかろうとしています。それは、私たちもまた、イエス様と同じように神との繋がりを生きようとする、人との繋がりを生きようとする、ということだと思います。

 私たち一人ひとりの命も、ただ食べて、寝て、必要なものが揃っていて、体が丈夫でというような命のレベルだけではなく、神との繋がりによって生きている命、人との繋がりによって生きている命を生きる。このことを通して、キリストの命にあずかる、これが私たちの信仰です。「死から命へ」の過ぎ越しの神秘の信仰を、今日新たにし、日々、希望と信頼を持って歩んでまいりましょう。

【3月28日 説教】B年受難の主日

  • 第1朗読 : イザヤ書50章4~7節
  • 第2朗読 : フィリピ2章6~11節
  • 福音朗読 : マルコ福音書15章1~39節

クマール・プラビン神父

今日はイエス様が十字架上で亡くなられる前にエルサレムの町に入られたことを思い起こします。この主日は伝統的に2つの名前があります。一つは、枝の主日です。イエス様が王としてシュロの枝でエルサレムの人々から歓迎されました。これはイエス様がまことの神であることを表します。二つ目は、受難の主日です。イエス様は私たちの愛のために苦しみ、命を捧げました。これはイエス様がまことに人であることを表します。

今日の福音では、イエス様の受難と死に関する話が朗読されました。この世で、私たちは命を受けている限り、すべての人が「死」を迎えます。また、その死は、とくに親しい人々にかなりの影響を与えます。がっかりさせます。元気をなくしてしまいます。生きていることがいかに重要なことなのかが、その存在がなくなって初めてわかります。逆の言い方をすると、生きてきたこと自体がメッセージを発信していたとも言えます。イエス様の場合は、まさに、人類のためにこの世に来られ、その命を捧げて、ご自分の使命を全うされたのです。

今日の第一朗読は、有名な「主の僕(しもべ)」の第三の歌です。第二イザヤと呼ばれるイザヤ書の40~55章は、捕囚時代(紀元前6世紀)の預言で、そこには4つの「主の僕の歌」と呼ばれるものが収められています。今日の朗読は、その中の第三のものです。「主の僕の歌」は聖週間の間に、月曜日に第一の歌、火曜日に第二の歌、水曜日に第三の歌、そして金曜日に第四の歌が朗読されていきます。神の言葉を受け、それを伝えたために迫害を受けた主の僕。この主の僕が誰かについては、イスラエルの民全体の運命を指すとか、または、将来現れるメシアの姿として捉(とら)えられてきました。主の召命を受け、人類の罪を背負って苦難を受けた僕の姿は、キリストの姿に他ならないと、初代教会から大切に考えられてきました。本日の第一朗読でイザヤはメシア、すなわち、救い主の苦しみを預言します。キリストは本当の人間の苦しみを体験しているので、苦しみに疲れ果てた人を励ますことができるのです。

第二朗読では、「キリストの賛歌」であるフィリピの信徒への手紙が読まれました。このキリストの賛歌は、聖週間の間たびたび登場します。キリストのへりくだりと死に至るまでの従順、それに続く高挙(こうきょ)を歌う点で、受難と復活の神秘の神髄(しんずい)を示しています。キリストの地上での生活は、僕の姿、つまり、仕える者、神と人々に奉仕する姿で要約されます。人々が救い主に抱くイメージと、イエス様の生涯にはあまりにもギャップがありました。しかし、そこにこそ、神の神秘が秘められているという感動が、このキリストの賛歌の根底に流れているのです。これは、教会の信仰の基調(きちょう)を奏(かな)でている賛歌であり、それを使徒聖パウロは記したのです。

聖パウロはフィリピの教会への手紙で、イエス様はまことの神であるが、すべてを捨てて、つまり、神であることの栄光をわきにおいて、私たちのような真(まこと)の人となり、本当に苦しまれたと語っています。真の人間であることで、イエス様は多くの苦しみを経験されました。イエス様は十字架上で「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか」と詩編22の冒頭(ぼうとう)の言葉で祈ります。神がイエス様を見捨てられたように聞こえますが、この詩編は賛美に満ちた神への信頼を表しているのです。

マルコの受難物語は非常に残酷ですが、ローマ軍の百人(ひゃくにん)隊長の「本当に、この人は神の子だった」という宣言(せんげん)で終わっています。このマルコ福音書の受難物語の背景は今日の私たちにとっても大切です。マルコ福音書が書かれた1世紀のキリスト者は迫害されており、非常に苦しんでいました。そこでマルコは苦しむ人々に励ましのメッセージを与えました。「イエス様は私たちのように本当の苦しみを経験された。だから、イエス様は私たちが苦しむときには私たちの真ん中におられる。」また、イエスご自身の具体的な言葉があります。「小さな群れよ、恐れるな。私はあなた方とともにいる。」聖書のこの言葉は永遠の現在形であり、イエス様はこの言葉を今日も私たちに語っているのです。

作家の遠藤周作は『イエスの生涯』という本の中で書いています。「イエスは私たちの人生の旅路の永遠の同伴者です。イエスは人間のすべての悲しみと痛みを経験しました。」イエス様は語ります。「苦しみを味わった。あなたの痛みがどんなかを知っている。だから、『苦しむ時、あなたのそばに私はいる。』」これは私たちが苦しみやすさみの時に大きな希望を与えてくれます。私たちは決して一人ではないのです。今日もイエス様は生きておられ、語られています。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」イエス様が一緒に苦しんでくださるとき、私たちもイエス様の苦しみの深い意味をよりよく理解できます。とくに「一緒に」という言葉は重要です。これをこの聖週間の中で味わってまいりましょう。

【3月21日 説教】B年四旬節第5主日

  • 第1朗読 : エレミヤ書31章31~34節
  • 第2朗読 : ヘブライ5章7~9節
  • 福音朗読 : ヨハネ福音書12章20~33節

クマール・プラビン神父

皆さん、私たちの命、あるいは生活というのは、一体何のためにあるのかということを考えた時、最終的には自分のためにだけあるのではないと言えるのではないでしょうか。つまり、自分のためだけではなく、誰かのために私たちの命があるのです。そして誰かのために生きる時、どこかで自分に死んでいく必要なことが多々あるのではないでしょうか。

今日の福音書では、過越祭を目前にしてエルサレムの都に入られたイエス様が、全人類にご自分がもたらす救いの業を、穀物の種の例えに秘めて語られています。麦の種が種のままでいることに留まるのであるならば、大地から芽を出すこともなく、成長して多くの実りをもたらすことはありません。しかし、種が地に落ちて芽を出すと、種としての自分は無くなり、その意味では死んでしまうのですが、多くの実りをもたらすものになるのです。

皆さん、種の例えから言えることは、私たちの命は自分のためにあるのではありません。誰かのために、何かをすることのためにこそ与えられているのです。そのことを少し強い言葉「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」とイエス様は語っているのです。私たちが誰かのことを大切にしたり、誰かのために心を配ったりするとき、どこか何らかの犠牲を捧げているのではないでしょうか。あるいは、何か辛いことを受け止めていくことも同じことかもしれません。「誰かのために生きること」の大切さを、イエス様は今日の福音書で私たちに語っているのです。

私は時々友人のご両親と話をする機会があります。ある日友人の父親は電話でこのように語ってくれました。「私は自分がご飯を食べるとき、あるいは物を買う時にはいつも自分のことよりも自分の子どもに何を買ったらよいかを考えてしまいます。また、美味しいものを食べるときにも、これを子どもにも食べさせてあげたいと、いつも子どもはどうだろうかと考える自分がいるのです。」次に電話に出た友人の母親は子どもが体験した出来事を話してくれました。「子どもが小さかった時に熱を出して徹夜で看病しなければならないときがありました。私はそのときとても心配でしたが、徹夜で看病しているとき、辛いとか苦しいとかは全く感じませんでした。そして翌朝に病院に連れて行くことが出来て安心しました。」この友人のご両親の体験のように、すべての親はこのような気持ちになることは多いことでしょう。それは自分以上に子どもを深く愛しているからだと思います。

私たちの人生には様々なことが起こります。苦しいことや辛いことに出会う時、何で自分なのかと思ったり、何らかの犠牲を払わなければならないことも起こり得ます。そのような時、神のために、あるいは誰かのためにそれを捧げるならば、それは大きな実を結ぶことに繋がるのです。このことをはっきりと語っているのは、イエス様の十字架上の死です。イエス様は十字架の死に至るまで、多くの苦しみを捧げるだけでなく、自分の命までも捧げられました。これによって多くの人々に救いの恵みが与えられました。私たちの小さな犠牲や苦しみも同じだと思います。そこに愛の心とか、神のためとか、誰かのためとかならば、私たちの小さな犠牲や苦しみは、大きな実りを結ぶきっかけになることでしょう。

人生において無駄なことは何もありません。私たちが避けたいと思うような病気や苦しみ、あるいはこの四旬節における節制などは、小さな捧げものの何かであるかもしれません。それを実践することは、神の下では大きな恵みとなり、私たち自身には分からないかもしれませんが、神が必要な人に、必要な恵みを何倍にもして与えてくださっているのではないでしょうか。今日の福音書は語っています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」つまり、皆さんの小さな死、小さな犠牲、小さな苦しみを捧げることによって「多くの実を結ぶ」ということです。このような行いを主が喜んでくださっているのは間違いないと思います。

皆さん、私たちが本当に神の恵みにあずかれるように、そして、私たちが本当の信仰のうちに神との交わりを深めることができるように、福音書でも語られた「地に落ちて死ぬ」ような、小さな犠牲を実践できるよう、祈り求めていきましょう。

【3月14日 説教】B年四旬節第4主日

  • 第1朗読 : 歴代誌下36章14~16,19~23節
  • 第2朗読 : エフェソ2章4~10節
  • 福音朗読 : ヨハネ福音書3章14~21節

クマール・プラビン神父

皆さん、先週の木曜日3月11日は東日本大震災から10年目となりました。震災によって多くの命が奪われ、現在でも多くの方々が避難生活をしています。この震災の日のことを今でも覚えている人は多いのではないかと思います。その日私は那覇教区のカトリック普天間教会にいました。仲間の神父たちと一緒に昼ごはんを食べておしゃべりしていた時、インドから次々と電話がありました。最初は兄からの電話でした。「あなたは大丈夫ですか。無事ですか。心配だから電話をかけました。」「どうしてですか」と私は尋ねました。「日本は津波で沈んでいます。知らないのですか。気をつけてください」と兄は教えてくれたのでした。本当に10年という月日は長いようで短いです。この日私は10年前の様々な出来事を思い出しました。

2012年に私はさいたま教区に移動になりました。福島へボランティアに行き、私はある被災者と話す機会がありました。「家も全て流されたが、その時は何もできなかった。それからお見舞いの手紙も来たが、読めなかった。返事も一行も書けなかった。今までのように新聞も読めない、ご飯も作れない」とその方は語ってくれました。どれほどの大きな苦しみだったのでしょう。このような体験が次々と思い出されて蘇ってきたのでした。

私たちはしばらくすると忘れてしまうことがありますが、恐ろしい力が働いて、私たちの家族がバラバラになってしまうこともあります。今日の福音書で言われているように、闇の力が働き、苦しみの中に私たちが巻き込まれてしまうことが度々あるのです。私たちの生活やすべてが壊されてしまうことは、いつでも起こりうるのです。しかもそれは突然に来るので、そのことを私たちは覚えておいたほうがよいのではないかと思います。

それと同時に、今日の福音書には「光の方に」と書いてあります。どうして私たちに光が必要なのでしょうか。なぜ「光の方に」行かなければならないかと言えば、私たちにはたくさんの暗闇があるからです。私たちの人生において災害だけでなく、他に暗闇がたくさんあります。私たちの心の中にも、仕事にも、人間関係にも、健康にも、様々な闇と呼ばれるようなものが一杯あるのです。ですから、私たちは「光の方に」向かって歩んでいかなければならないのです。

皆さん、東日本大震災は多くの苦しみがありましたが、それだけではありませんでした。この震災では日本各地、世界からも大勢のボランティアが来て、助け合う光景を見ることもできました。暗闇の力も強いですが、その暗闇を乗り越える光というのは、私たちが助け合ったり、お互い励まし合ったりすることから生まれるのです。この10年間を振り返ってみると、震災の暗闇の大きさは未だ消えてはいませんが、それを乗り越えようとする人間の善意や助け合う心から生まれた光は絶大です。苦しみの中にもたくさんの光が輝いていました。そのような出来事を思い出すだけで、胸がいっぱいになります。ですから、私たちも「光の方に」向かっていきましょう。

今日の福音書でイエス様は次のように言われました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る。」独りも滅びないように、神は助けようとしておられます。それは私たちが神の手足となって助け合う時、神の光が私たちの心の中に照らし出されてくるのだと思います。私たちはその光を大切にしながら、暗闇に負けないようにしたいものです。小さな悩みや困難が一杯ある私たちですが、光は必ず灯すことができます。ですから、光を灯せるように神に願いましょう。そして、すべての人の中に光が差し込むようにお祈りいたしましょう。

今週の水曜日17日は、1865年に長崎で信徒が発見された記念日です。長崎の信徒たちは250年にわたるキリシタン禁制の中で、7代にわたって信仰を守り通してきました。今の時代に迫害はありませんが、信徒は魂のこと、神のことを忘れがちになっているように見受けられます。迫害の時代に長崎の信徒たちが長い間どうして信仰を守り続けることができたのかというと、それは三つのことを大切にしていたからです。一つは教会暦(典礼季節)を大切にしていたこと、二つ目はマリア様への信心があってロザリオを唱えていたこと、三つめは自分が罪びとであるという深い自覚、だから赦しが必要であるという意識を持っていたことです。私たちはこの四旬節の間、神のかけがえのない犠牲によって贖われたものであることを自覚し、信仰を次の世代に伝える役割を担っていることを思い、祈り、節制、そして愛の業を行いながら、聖霊の導きと照らしを祈り求めていきましょう。

【3月7日 説教】 B年四旬節第3主日

  • 第1朗読 : 出エジプト20章1~17節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント1章22~25節
  • 福音朗読 : ヨハネ福音書2章13~25節

クマール・プラビン神父

皆さん、私たちは四旬節も第3週を迎え、復活祭に向かって歩んでいます。神の言葉を大切にしながら、より深い喜びを味わっていきましょう。神の言葉を通して私たちは新しく気づくことが多くなっていることでしょう。私たちはまだコロナ禍の辛い時期を過ごしていますが、それを通してみ摂理である神がご自分の愛を私たちに示してくださいます。そしてこの辛い時期を乗り越えることが出来るよう手伝ってくださいます。

私は数日前に75歳になった神父様のインタビューを読み、感動しました。今日はそれについて紹介させていただきます。新聞記者がその神父様に「75年の人生の中で起こった忘れがたいことを教えてください」と尋ねます。それに対して神父様は次のように答えられました。「私にはある人に命を助けてもらった生々しい思い出があります。それは45年経った今でも鮮やかに覚えています。そのとき、私は30歳の若い神父でした。30人の神学生と一緒に海に泳ぎに行ったときのことでした。その日、波はとても高く、海の底には強い流れがありました。私はそんな打ち寄せる波の中で泳ぐことは初めてでした。波に横向きに飛び込むと、そこに向かって引き込まれてしまいました。私はパニックになり、溺れると思いました。その時です、パトリック・フィナウという若い神学生がすぐに飛び込んで来てくれ、私を助けてくれたのです。私は感謝で一杯になりました。その後、とても不思議なことが起こりました。その日から、私たちの間には目に見えない絆ができたのです。10年経ち、30年経って彼が司教になっても、その強い友情を感じているのです。パトリックが私の命を助けてくれた、そのことに私は今でも彼に感謝しています。」

皆さん、少し考えてみてください。私たちは皆、同じようなことを経験しているのではないでしょうか。イエス様が私たちを救うために、進んで十字架の上で命を捧げてくれたのです。私たち一人ひとりとイエス様の間には目に見えない絆があるのです。今日の第2朗読で使徒パウロは私たちの目の前に十字架のしるしを置いて、その意味を理解するように話してくださいます。長い歴史の中で、神からのしるしを求めてきたイスラエル人たちは、十字架のしるしを見ても、つまり、十字架に付けられたイエス様を見ても神の愛を理解できませんでした。哲学的であるギリシャ人でさえ、十字架のしるしを理解せず、使徒パウロの話しも聞かずに離れていきました。しかし、使徒パウロは聖霊に支えられて、皆の前に十字架のしるしを置いて、その意味を力強く語りました。神はご自分の限りない愛を示すために弱い者、愚かな者を通して、私たちにイエス・キリストの本当の知恵と力強さを示してくださいました。

本日の福音箇所で、イエス様は典礼である神への真の礼拝を力強く教えてくださいます。イエス様が教えてくださる神への礼拝は、神の言葉を聞き入れることです。神の赦しを得るのは生贄の数々や商売によってではなく、神の言葉を聞くことです。イエス様は神の言葉を聞かない人に対して、また、神にするべき礼拝を商売に変える人に対して憤りを感じて、神殿から商売人を追い出しています。この出来事からイエス様が私たちにいくつかの真実を教えてくださいます。

その一つはイエス様の正体が、旧約聖書が預言者に語ったメシアであるということです。神殿は神に出会う場ですが、むしろ、本当の神と出会う場はイエス様ご自身です。イエス様が神の語るべき言葉であり、私たちに神の心を示すしるしです。イエス様の体は新しい神殿であり、神に出会う場であって、真の礼拝ができる場なのです。イエス様が言われた建て直される神殿とは、「御自分の体のことだったのである」と書かれています。イエス様はご自身の体こそ神の現存のしるしであると言われるのです。キリスト者の礼拝の場、その源は、新しい民の神殿であるキリストの体です。私たちは洗礼や聖体の秘跡を受けるとき、キリストの死と復活にあずかり、聖霊を受け、真の礼拝者とされるのです。

二つ目の教えは、神の住まいである人間の体も、商売の場ではなく神に礼拝する場であることを示しています。イエス様が神の住まいについて考えた時、エルサレムの神殿には病人や罪びとは近づけなかったのです。イエス様はむしろ病人の中に神が住んでおられると考えていました。私たちは神の住まいについて考えるとき、ついつい教会の聖堂を考えてしまいます。それはある意味では、イエス様の時代の神殿と同じような役割を果たしています。しかし、神の住まいについてはもっと広い心で理解していかないと、とんでもない間違いを犯してしまいます。時と場合によっては、私たちが神と出会う場は聖堂の外もありえます。一人ひとりの人間の体が神の住まいであり、私たちは周りの人と出会っていくなかで神と出会うのです。そのために、誰も差別されてはいけませんし、すべての人が対等に神の住まいなのです。

皆さん、私たちは信仰によって聖霊の神殿となっています。四旬節はこの事実を固く信じて、具体的に生きる時と言えるでしょう。自分の内や周りの人々の中に神を探し、祈り、節制し、愛の業を行いながら、聖霊の導きと照らしを祈り求めていきましょう。

【2月28日 説教】B年四旬節第2主日

  • 第1朗読 : 創世記22章1~2,9a,10~13,15~18節
  • 第2朗読 : ローマ8章31b~34節
  • 福音朗読 : マルコ福音書9章2~10節

クマール・プラビン神父

皆さん、四旬節第2主日に入りました。今日の第一朗読は、神がアブラハムを試される有名な箇所です。アブラハムが愛する一人息子イサクを神に捧げる話です。神はアブラハムを試して言われました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。」何とむごい命令でしょうか。何と不条理な命令でしょうか。私たちには少し理解しがたい話です。本当に神はこのような命令をしたのでしょうか。しかし、信仰の人アブラハムは躊躇せずにすぐに命令に従いました。このアブラハムの忠実な態度を見て、神は息子に手をかけるなと命じます。そしてアブラハムが目を凝らして見回すと、一匹の雄羊が見えました。そこで彼はその雄羊を捕まえて、天と地を結ぶ生贄としてささげたのでした。

この話を私たち現代人はどのように受け止めたらよいのでしょうか。ひとり息子をささげようとしたアブラハムの気持ちは一体どういうものだったのでしょうか。あるいは、生贄としてささげられそうになったイサクはどのような気持ちだったのでしょうか。父親に屠られて殺されようとするその時に、イサクの心の中にはどのような思いが沸き起こっていたのでしょうか。アブラハムの心中の苦しいまでの葛藤、息子イサクの中にも渦巻く葛藤や不安、このような複雑な思いが入り混じった状況が、この話では語られていくのです。

私たちは四旬節にあたり大切なものを、あるいは自分自身を、あるいは命を捧げるのです。では、「捧げる」ということは、いったいどのようなことなのでしょうか。この問いを問い直してみることは大切なことかもしれません。「捧げる」ということは、現代の日本の社会ではあまり注目されないものです。しかし、私たちにとっては何か大切なことのために、自分自身を捧げていこうとすることは重要なことだと思います。

信仰の父と呼ばれているアブラハムは、その信仰が賞賛されている人です。その信仰とは、不条理の中でも敢えて神への信頼を貫き通すことだと思います。信仰とは確かに不条理の中でこそ意味があるのかもしれません。人生には不条理なことがたくさんあります。その現実の中で、どのようにして神を信じることができるかが誰にとっても大きな課題です。アブラハムの受けた試練は信仰とは何かを考えさせる大切な何かを教えています。

一方、信仰の模範といえば、イサクの信仰も賞賛されています。重い薪を背負い父親に従い、その父親に殺されそうになったイサクは、イエスの先駆者とも言えるかもしれません。今日、わたしが深く考えてみたいと思うことは、不条理の中での信仰です。このイサクの犠牲の話は少し分かりにくいのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストの十字架の犠牲と合わせて読んでみれば、復活の光がほのかに見えてくるのではないでしょうか。旧約聖書は新約聖書の光に照らして読まなければなりません。今日の福音はご変容ですが、私たちの日常生活にも小さなご変容というべき出来事があると思います。私たちは、日常の中に輝く復活の光によって支えられ、励まされていると思います。

アブラハムはイサクを屠らずに済みました。実際に愛するひとり子イエスを捧げたのは御父です。御父の意向だったのか、イエス様の意向だったのか、私たちのために愛するひとり子イエスを捧げつくすことになりました。この四旬節は、私たちがそのイエス様にお捧げの準備をしているわけです。イエス様は自分の命を捧げつくし、御父は愛するひとり子イエスを捧げつくしたことによって、主の変容の素晴らしい世界が広がったのでした。この出来事は私たちの救いに直結しているものです。捧げつくした先にあるものは恵みの世界、救いの世界が広がっています。ですから、捧げることには大きな意味があるのです。私たち一人ひとりが出来ることは、ほんの小さな捧げものかもしれません。しかし、この四旬節中に何か私たちの大切なものを少しでも捧げていくことができたら、神の大きな恵みの世界を味わっていくことができると思います。それが出来ますように心を合わせてお祈りしていきましょう。

【2月21日 説教】B年四旬節第1主日

  • 第1朗読 : 創世記9章8~15節
  • 第2朗読 : Ⅰペトロ3章18~22節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章12~15節

クマール・プラビン神父

皆さん、先週水曜日の「灰の水曜日」から今年度の「四旬節」という時期に入りました。四旬節は回心の時です。それは私たちの心を憐れみ深い神に向け、まことの命に繋がらせていただき、恵みを受ける時です。ご復活の恵みにふさわしくあずかることが出来るように、祈り、節制し、愛のわざを行う時といたしましょう。

今日の第1朗読は、神がノアと結ばれた契約について読まれます。創世記に描かれている40日40夜の大洪水は、神から人間の罪に対する罰でした。大洪水は、地上の全てのものが存在するに値しないことを表しています。人々と大自然は、日常生活の中で滅んだのです。人間とその世界は自己中心的となり、神との交わりを拒否し、虚栄と虚偽、無関心と孤独、エゴイズムの世界に落ち込み、世界の秩序は乱れました。神はノアに箱舟を造らせ、神を信じる人々をそれに乗せ、洪水から救い出しました。神は洪水に先立って契約を結ばれ、神はそれを守ることを保証します。人は神からの祝福を無償で受け取るのです。その祝福とは、人が神との係わりを保ちながら生活していく良さであり、それは神にとっても良さを示すものです。

今日の福音書では、イエス様は荒れ野で40日間過ごされたというエピソードが語られました。「荒れ野」とは、あまり人が住んでいない、緑も少ない、何もない場所です。「荒れ野」は聖書の中では特別な場所を意味します。そこは試練の場所であり、誘惑の場でもありますが、また、神と出会う特別な場所でもあります。そのような所でイエス様は40日を過ごされたのです。

「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と書いてあります。ところで、イエス様が受けられた試練とは、誘惑とは、何だったのでしょうか。マルコの福音書には書かれていませんが、マタイとルカの福音書には、イエス様は三つの大きな誘惑を受けられたと記されています。最初は空腹を覚えた時に石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑、そして最後は神を試す誘惑です。

三つの誘惑のうち、最初の二つの誘惑は共通していて、悪魔は「お前が神の子なら、何々してみろ」という言葉で誘惑します。「お前が神の子なら、この石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という最初の誘惑と、二つ目の「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の屋根の上から飛び降りて、足が石に打ち当たる前に天使に助けさせてみろ」という誘惑です。もしイエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、神殿の屋根から飛び降りても天使に助けてもらえれば、それはイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様はそれらのことをせずに、敢えて凄まじい空腹を選ばれ、また、目のくらむような高い所に留まったのでした。何故でしょうか。それは、もし悪魔の言うようなことをしていれば確かに神の子としての力を見せつけることはできたでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したことをしてしまうことになり、悪魔の意志のもとに服従することになるからです。悪魔が「行え」と言ったから「行った」ことになってしまうのです。だからこそ、イエス様は敢えて空腹と恐怖のほうを選び取ったのでした。

「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンの必要性を否定しているものでありません。イエスは、それよりもっと重要なものがあるとして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られました。人は自分の命を保つためにパンを必要としますが、それ以上に神の言葉、すなわち、すべての命を守るために神の一人ひとりへの思いが実現することこそが、人を生かすことであると私たちに教えています。

最後の誘惑は、イエス様に世界の国々とその繁栄ぶりを見せた上で、もしひれ伏して悪魔を拝むなら、「これをみんな与えよう」という誘惑でした。しかし、イエス様はこれに応じませんでした。この誘惑を拒否したことは、私たち人間の救いにとってとくに重要な意味を持ちます。なぜならば、イエス様はこの荒れ野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かり、その時、神からの聖霊を受け、同時に神の子であるとの認証を受けたからです。もし、その神の子が悪魔に服従していたならば、神の子が受けた神の霊も服従したことになります。神と同質である神の子と神の霊が悪魔より下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したも同然になり、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、イエス様は毅然とした態度をとるこによってそうしなかったのです。

皆さん、イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝ったエピソードは、私たちにとって象徴的なものであると思います。私たちは、イエス様を自分たちの救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の悪魔からの勝利に私たちも結びついているのです。イエス様に従っていく生き方のひとつは、私たちも荒れ野に向かって行くということです。そしてイエス様が荒れ野で悪魔に打ち勝ったように、私たちも悪魔の誘惑に負けないようにいたしましょう。そのためにも祈り、節制し、愛のわざを行いながら、聖霊の導きと照らしを祈り求めていきましょう。

【2月14日 説教】B年第6主日

  • 第1朗読 : 創世記3章16~19節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント10章31~11章1節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章40~45節

クマール・プラビン神父

今日の福音書は、イエス様が重い皮膚病を患っている人を癒す奇跡物語です。重い皮膚病であるハンセン病は昔から西洋や東洋を問わず、治らない、不治の病気だと思われてきました。現在では治る病気になりましたが、特効薬が見つかるまではとても苦しむ病気でした。身体的に大変だっただけではなく、もっと決定的に苦しかったことは、この病気によって神との関係も断たれてしまったということです。その当時は、病気というのは神からの罰だと考えられていました。自分が犯した罪、家族の誰かが犯した罪、あるいは先祖の誰かが犯した「罪の罰」を受けているのだと考えられていました。当時の律法解釈によれば、重い皮膚病を患っている人は汚れている人で、その人と関わると私たちも汚れてしまうと信じられていました。ですから彼らは罪人として社会から差別され、疎外されていました。この人々は生きている間、死んだも同然の扱いをされ、社会生活や祭儀にも加わることが許されませんでした。今日の福音書では、このような病気を患った人がイエス様の所へ来て、癒しを願うわけです。

私が神学生の時にハンセン病療養所に訪問したことがあるので、そこでの体験を分かち合ってみたいと思います。私たち神学生は、ハンセン病療養所を訪問する前日まで、とても悩んでいました。なぜならば、患者の方々とどう向き合ってよいのか、あるいは、どのようなことを話したらよいのかがわかりませんでした。私は重い皮膚病の人に出会うまで、彼らは汚れた人で、その人と関わると私も感染してしまうのではないかと心配していたのです。同じような気持ちを持った同級生と一緒にハンセン病療養所に行きました。そこに到着し、挨拶をしてからお土産のお菓子を一人ひとりに配りました。その中の一人が渡されたお菓子を半分食べ、残りのお菓子を「どうぞ食べてください」と私に差し出したのでした。それは私にとって衝撃的なことでした。このお菓子を食べたらどうなるのかと心配になりましたが、心の中で「神様、助けてください」と祈りながら頂きました。そのお菓子を食べた後、私が持っていたハンセン病患者に対する偏見は消えていきました。彼らから逃げたいと思うのではなく、憐みの心で愛するようになりました。そして、手を差し伸べて患者に触れる体験もできるようになっていました。

今日の福音書では、癒しを願って来た重い皮膚病の人を見て、イエス様は「深く憐れんだ」と記されています。この人の痛みをイエス様は心から感じられたわけです。そして、その人に手を差し伸べて「よろしい。清くなれ」と言われました。手を差し伸べてその人に触れるという行いは、人間的に考えてみると大変なものだったと思います。しかし、重い皮膚病を患った人に触れるイエス様は、病人のために来た医者、解放者、癒し人として福音書に登場します。

皆さん、私たちにはイエス様のように病気を癒す力はありません。しかし、病人を愛することはできます。ですから、大きなことは出来なくても、小さなことに目を向けることが必要です。まずは、自分の周りに目を向けて、愛の実践を行いましょう。私たちは「誰も私のことを愛してくれない」と思って苦しむことがあります。皆さん、愛は誰かから愛されることだけでなく、誰かを愛することによっても手に入れることができるのです。最初に自分の殻から抜け出し、周りの人たちの苦しみに目を留めればよいのです。夫が、妻が、子どもが、友達が今どんな苦しみを抱えているのかに気づいて手を差し伸べればよいのです。手を差し伸べれば、その瞬間に、その人と私たちの間に愛が生まれます。こうして、私たちは望んでいた愛の実を手に入れることが出来るのです。「愛はいつでも実っている果実であり、手を伸ばせば届くところにある」とマザー・テレサは語っています。

私たちは他の人から、神の手が差し伸べられて助けられています。私たちも誰かに手を差し伸べてその人に触れるようにしたら、そこにいつも癒しの奇跡が起こります。どんな苦しみの中にいても、神の恵みの働きが、そのような時にこそ起こるのです。皆さん自身もそのようなことを体験されたことがあるでしょう。私たちを通して神の癒しの力は働きます。私たちはイエス様の心を受け止めながら、それを分かち合っていくことができるよう、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

【2月7日 説教】B年第5主日

  • 第1朗読 : ヨブ記7章1~4,6-7節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント9章16~19,22-23節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章29~39節

  クマール・プラビン神父

今日の第1朗読では「ヨブ記」が読まれました。「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの」と始まるこの朗読は、何か心に響いてきます。このヨブ記の中には人生の真の姿が描かれています。愛である神が創造された世界に、どうして悪と苦痛があるのでしょうか。苦しみと試練があるのでしょうか。病気や痛みがあるのでしょうか。これは人間に立ちはだかる最も苦痛に満ちたテーマです。どうしてこの世界にこんなにも悪があるのでしょうか。答えがありません。しかし、「すべてのことに解決策がある」という言葉通り、神を信頼して生きていけば、実際に日常生活の苦しみの中にも神の救いを感じることができます。

今日の福音書では、イエス様のいやしの業が語られました。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていて、イエス様が「そばに行き、手を取って起こされると」、熱が去って起き上がることができ、一同をもてなしました。聖書の中で「立つ」という言葉は、非常に良い意味で使われます。「救われる」という象徴でもありますし、私たちが「自由になる」という、捕らわれから解放される姿とも言うことができます。

今日の福音書では、イエス・キリストがシモン・ペトロのしゅうとめをはじめ、多くの病人や悪霊に取りつかれている人々を癒し励まされます。このキリストの姿から、コロナ禍の中で私たちもこの世界に癒しと励ましをもたらすために何が必要かと考えてみたいと思います。

この癒しと励ましのことを考えた時に思い出したのは、コロナに感染された方の新聞のインタビュー記事でした。感染された方はとても不安でおられたようです。しかし、その不安の中にいたとき、職場の上司から「大丈夫、心配しないでね。ゆっくり休んで」と連絡があり、涙が溢れたそうです。また、病院では夜中にひどく咳き込むと、看護師が咳を抑えるステロイド剤を持ってきてくれたそうです。「元旦にはおせち料理が出ておいしかったこと。病院の配慮が心に沁みたこと」を覚えておられ、「食事を運んでくれた人、健康管理をしてくれた看護師、病院側の対応、人の手助けが何よりもありがたかったこと」を語っておられました。この新聞記事は私の心にもとても沁みました。ここに私たちが不安に負けることなく、互いに手を取って励まし合い、生活に癒しをもたらそうとする力の源泉となるものが示されています。また、コロナ禍のこのような状態の中にいる私たちが互いに支え合いながら、不安な情報に負けてしまうことなく、つつましく生活を律していくことの大切さも伝えています。

今日の福音書でもイエス様がペトロのしゅうとめを癒し立ち上がらせています。つまり、彼女のためにイエス様が新たな命になります。イエス様の力で生き返った者は人をもてなし奉仕します。次にペトロのしゅうとめに注がれた力と恵みは、苦しみ悩む人々にも与えられています。そして、イエス様自身が人の癒しや救いであることを教えてくださっています。もちろん、現代に生きる私たちには、弟子たちのように目に見える形でイエス様はそばにおられません。しかし、見えない形でイエス様は信じる者のそばにおられます。彼の語った教えと成し遂げた業は聖書に記されています。イエス様の到来と神の計画の実現についての預言も聖書には収められています。実に、聖書のみ言葉を読み聞きすることを通して、私たちは弟子たちと同じくらいイエス様の近くにいることになるのです。聖書の重要性を侮ってはいけません。洗礼のときに始まった主と共に歩む人生の歩みがしっかりしたものになっていきます。さらに、イエス様は私たちの祈りをいつもひとつ残らず聞き、父なる神に執り成してくださいます。まさに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束された通りです。

私たちはイエス様の価値観を学んで、イエス様の心をよく理解し、イエス様の生き方を少しずつ生きていこうとするとき、自由な愛の心を私たちも養っていくことができるのではないでしょうか。そして、私たちの捕らわれからも解放されるのではないでしょうか。このイエス様の癒しの力、私たちを解放してくださる力を信じ、その信じる心を持ちながらこの一週間を過ごしていけるように、祈りを捧げたいと思います。

【1月31日 説教】B年第4主日

  • 第1朗読 : 申命記18章15~20節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント7章32~35節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章21~28節

クマール・プラビン神父

皆さん、今日の第一朗読では、預言者が神の名によって命じたことは守らなければならないと言っています。また、福音書においては、イエス様が汚れた霊に取りつかれた男に対して、「この人から出ていけ」と命じると、その人から汚れた霊が出ていきます。この第一朗読と福音書に共通することは、「神の命じることを聞きなさい」ということです。しかし、神の命じることに完全に聞き従うことは不可能なことです。私たちは原罪によって傷ついていますので、いつも神から離れて生きていこうとしてしまいます。けれども、神は私たちが知らないうちに私たちを使って、神の声が聞こえるようにします。そこで今日は、神の声をどのように聞いているのか、そして、どのように聞いていけばよいのかを一緒に考えてみたいと思います。

ある貧しい女性の物語をお話しします。この貧しい女性は、ある日助けを求めてキリスト教のラジオ局に電話をかけます。その時丁度、不信者として知られ、宗教を非常に軽蔑していた男性がこのラジオ番組を聞いていました。そこで彼はこの女性にいたずらをしようと思いつき、彼女を馬鹿にするような悪いことを考えて、この女性の住所を調べました。そして、彼は自分の秘書に電話をかけ、次のように命じました。「一週間分の食料を買って、この貧しい女性に届けてください。誰が彼女に食べ物を送ってくれたのかと尋ねられた時、それは悪魔からだと言いなさい。」そこで秘書は食料を持って彼女のところへ届けに行きました。この貧しい女性はとても嬉しくなり、食べ物を受け取って、「ありがとうございました」と言って、家に入ろうとしました。秘書は「すみません」と声をかけ、彼女に尋ねました。「あなたは誰がこの食べ物を送ってくれたか知りたくないですか。」貧しい女性は答えました。「いいえ、誰が送ってくれたかは関係ありません。なぜならば、これは神様のご計画です。神様が命令すると、悪魔でさえ従うからです。」

皆さん、この話のように神が命令すると、悪魔でさえ従います。神が命令すると、悪い考えさえも変えてしまいます。今日の福音書は、神と悪魔の出会いです。この出会いによって「汚れた霊に取りつかれた男」は、悪魔からの束縛から、イエス様の力によって解放されます。この出会いによって、悪魔の王国は神の王国に変わります。

イエス様は安息日に会堂に入って教えました。イエス様の教えは力と信念に満ちた教えでした。イエス様の教えは情熱と熱意に溢れた教えでした。イエス様の教えは律法学者のようにではなく、権威ある新しい教えでした。先週の福音書で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、ガリラヤでの宣教活動を始められました。「神の国」とは、実際の「国家」というよりも、神が支配する「状態」を意味します。福音書に登場する奇跡、「悪魔祓い、病人の癒し、そして罪びとのゆるしの出来事」は、まさに神の国の到来、神が支配する状態が実現しつつあることを表す「目に見えるしるし」です。神の国の到来の最初のしるしは、今日の福音書でイエス様が会堂で教えられていた時に示されました。それは悪魔祓いです。汚れた霊を追い出す行為は、病を治すということだけを示すものではありません。病を見つめ、対面し、価値観を相対化させることによって別の物語を私たちに提示します。ただ一回限りのことではなく、絶えず新しい可能性として主イエスが用意し続けてくださるという信頼においてなされていくはずです。

皆さん、教会の使命は主イエスの使命を引き継ぎ、神の国の福音を宣べ伝え、神の支配が実現していること、神の国が来ていることを指し示すことに他なりません。私たちが神の声を聞き分け、この世の中に対して神の代理者として、苦しんでいる人々を支援していくことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めていきましょう。

【1月24日 説教】B年第3主日

  • 第1朗読 : ヨナの預言3章1~5,10節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント7章29~31節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章14~20節

クマール・プラビン神父

皆さん、私たちは誰のために、何のために生きているのでしょうか。私たちにとって何が大切なものでしょうか。もちろん、家族や仕事が自分の命を支えてくれる大切なものです。しかし、それよりももっと大切なものがあると今日の聖書箇所が私たちに思い出させます。

今日の福音に登場する4人の青年はみな漁師でしたが、仕事の道具である舟や網よりも、自分の父親よりも、イエス様が大切だと判断し、イエス様についていくことを選びました。仕事の道具を捨て、父親をおいて、イエス様に従おうとした弟子たちは、自分の生きる土台を積極的にイエス様の福音に求めて、宣教活動を始めました。なぜかというと、彼らはイエス様の温かさで満たされ、イエス様について行きたい気持ちで一杯になって、それを感じたからこそ、そのイエス様の温かな心の深み、豊かさを人々に証しするようになりました。洗礼を受けて、イエス様に従っても従わなくても変わりがないだろうと思っている人は、やはりイエス様の温かな心をまだ味わっていないのでしょう。

ある金持ちのカトリック信者について面白い話があります。彼にとっては財産や富が一番大切なものでした。ある日曜日の説教で「神をあなたの人生で働かせなければ何も変わらない」ということを聞き、心配になったそうです。実際に、司祭は旧約聖書の創世記を引用し、世界の創造の時、神がどのような言葉を命じ、万物を創造されたかについて説明しました。「『光あれ。』こうして、光があった。『水の中に大空あれ。』そのようになった。『生き物が水の中に群がれ。』そのようになった。」だから、「自分の人生にも『神を働かせたら』奇跡が起きます」と言われたそうです。

金持ちの信者はこの説教を聞いてどのようにしたら自分が「人生で神を働かせる」ことが出来るのかと心配して、悩んでいました。彼が夕方家族と一緒に座っていると、8歳の孫が彼のところに来て、「おじいちゃん、教会学校の先生が、今日の説教のテーマで書くように宿題を出したの。僕が書いたものが正しいかどうか見てくれる」と言いました。彼は孫の「LET GO 手放しなさい」と書いてあったテーマを見て驚きました。

そこで彼は「神を働かせなさい」とは、「手放しなさい」ということを理解したのでした。

 皆さん、私たちの人生において「神を働かせる」ためには、私たちが持っている頑固な思いや悩みなどを「手放す」ことから始まります。これはキリスト教の基本的な真理であり、イエス様に従っていくために必要なことです。今日の福音書からもわかるように、最初の弟子たちはイエス様に従うために自分が持っていた全てのものを手放しています。イエス様との出会いは、その人の内面的な価値観だけでなく、人生をも変えてしまいます。洗礼を受けたひとり一人は、積極的にイエス様に従い、つねにイエス様と共に生きるという使命をいただいているのです。まだ何も変わっていないという人は、もしかしたらまだイエス様と本当に出会っていないのかもしれません。

 皆さん、この世では様々な人がいろいろなことを言って、「こっちがいいです」「あっちがいいです」と言うけれども、まずはイエス様を見てほしいです。イエス様についていってほしいです。第二朗読で聖パウロは、「この世の有様は過ぎ去る」と、そして、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と言っています。聖パウロの言葉のとおり、「この世の有様は過ぎ去る」のです。この世の中にあるもので、永遠のものは何もありません。人は寿命が来れば死んでしまいますし、家や車なども同じです。確かに、この世にいる間は幸せかもしれません。しかし、それは、本当の意味での幸せではありません。その過ぎ去るものに固執していると、自分も一緒に過ぎ去ってしまうのです。だから、過ぎ去らないものを信じて、心の隙間を埋めるために、私たちキリスト者はやはりイエス様に従って生きていくしかありません。私たちが神に選ばれた者として、「イエス様について行ける」ということが、どんなに素晴らしい恵みであるかということを感じて、私たちが感じる温かさが拡がっていくように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

【1月17日 説教】B年第2主日

  • 第1朗読 : サムエル記上3章3b~10,19節
  • 第2朗読 : Ⅰコリント6章13c~15a,17~20節
  • 福音朗読 : ヨハネ福音書1章35~42節

クマール・プラビン神父

今日は第1朗読と福音朗読で2つの召命物語が読まれました。この2つの物語には共通する部分があります。それは、サムエルと最初の弟子たちは積極的に主のもとに行ったのではなく、主から呼ばれて行ったということです。このことから、「召命」とは、私たちが自ら主のもとに行くのではなく、主の方から私たちを呼んでくださり、行くことであることがわかります。私たちは自分でもわからないうちにその道を選んでしまうのも、神からの呼びかけだからなのでしょう。また、私たちがいちばん興味を持っているようなことを一つのきっかけとして、神はご自分の望んでおられる道を指し示すこともあります。今日は神の招きである「召命」ということについて考えてみたいと思います。

昔々、3本の若い木が並んで育っていました。ある日、彼らは自分たちが成熟に達したときの将来について分かち合いました。一番目の木は、自分の木の品質がよく人々から賞賛を受け、豪華なマンションで使用されることを望んでいました。二番目の木は、どこの港でも寄港したときに人々からたくさんの注目を集めることができるように、最も美しい船の、最も高いマストに使用されることを望んでいました。そして三番目の木は、いくつかの有名な観光地の光景の一部になることでした。しかし、3本の木々の未来の現実は次のようなものでした。最初の木は切り倒され、その一部は馬小屋の飼い葉桶になりました。2番目の木は切り倒され、とても単純な舟を作るために使用されました。そして、ガリラヤ湖の湖畔に留められました。3番目の木も切り倒され、その一部で十字架の梁が作られ、イエスがその十字架につけられました。皆さん、これらの木々の夢にもかかわらず、神はそれぞれの木々のために計画と目的を持っていました。もし私たちが神に利用される可能性があるならば、神は私たちを使って神のみ国を築かれます。

先ほどもお話ししたように、今日の第1朗読は少年サムエルの美しい召命の話しです。神は少年サムエルに呼びかけます。そして4度目の呼びかけに対してサムエルは祭司エリの言葉に従い、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答えました。

福音書では、最初の弟子であるペトロ、アンデレ、ヨハネに召命が告げられています。実際、彼らは洗礼者ヨハネの弟子でした。彼らの前にイエスが現れ、「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、彼らはイエスについて行きました。そして、イエスの弟子となったのでした。

皆さん、私たちが持っている夢や望みにもかかわらず、神は私たちをどのように呼ばれるのか、何を計画してくださっているのかは分かりません。私たちの中には家庭生活に召される人もいれば、司祭や修道生活に召される人もいます。若い頃に呼ばれる人もあれば、人生の後半に呼ばれる人もいます。神の呼びかけを聴き、「召命」に応えるということが私たちの生き方の基本です。キリストに従うことは簡単なことではありません。弟子たちもこの難しさを感じられました。しかし、イエス様と一緒に住んでいたので、イエスをよく知り始め、理解しました。彼らは自分たちが完全でないことを認識し、また、失敗を重ねながらも、宣教に赴きました。それが本当に神の呼びかけ「召命」に応えることです。

いつも神と共に歩んでいるということを心に留め、神は今、私に何を呼びかけ、何をして欲しいのかを考えながら生きていきたいものです。私たち人間は欠陥を持っていて完全ではないので、いつも神の呼びかけを識別することはできないでしょう。しかし、私たちは完全ではないということを認識しつつ生きていくこと、また、失敗しながらも、神の呼びかけを聴いていこうとすることが私たちの「召命」なのです。それだけでなく、この世の中の人にも神の呼びかけを聴き分けていくことができるよう、私たち一人ひとりがこの世の中に伝えていきたいものです。

私たちが神からの呼びかけに応え、この世の中に神からのメッセージを伝えていくことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

【1月10日 説教】B年「主の洗礼」

  • 第1朗読 : イザヤ書55章1~11節
  • 第2朗読 : Ⅰヨハネ5章1~9節
  • 福音朗読 : マルコ福音書1章7~11節

クマール・プラビン神父

今日は「主の洗礼」を祝っています。イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授けられました。なぜ、イエス様は洗礼を受けなければならなかったのでしょうか。イエス様は洗礼を受ける前はガリラヤのナザレで普通の生活をしていました。別の言葉で言えばナザレの生活はイエス様の私生活でした。イエス様は洗礼を受けた後は、宣教に向けた生き方、すなわち、公生活に入ったのでした。イエス様の洗礼は人生における大きな転換点でした。

以前司牧していた教会で私が体験した出来事をお話ししたいと思います。カトリック信者であった母親が教会に行くためには介助が必要であり、そのために一緒に教会に来るようになった娘さんがいました。その方は結婚していましたが、たくさんの問題を抱えていました。いろいろな偶像を拝ませられたり、霊能者や新興宗教のところに連れて行かれたりしました。また、身体的に様々な悪霊現象に悩まされ、苦しい思いもしていました。その度にカトリック信者である母親に相談し、母親が彼女のために祈ったそうです。母親と教会に来るようになってからも霊的な圧迫や妨げはありました。あるときには、教会の前で母親を車から降ろして、一人で帰らなければならなかったこともあったそうです。しかし、母親の祈りと励ましによって、少しずつですが悪霊に打ち勝つことができるようになりました。娘さんは教えられた祈りをするようになり、主の守りも体験するようになりました。そして9月に洗礼を受ける予定にしていましたが、その時は悪霊の攻撃で胃腸炎にかかり、洗礼を断念せざるをえませんでしたが、復活祭でやっと洗礼を受けることができました。実は洗礼を受ける前日の夜にも急に悪寒がしたので体温を測ると全くの平熱でした。翌朝になり、教会に行こうとすると、靴の皮がポロポロと剥がれたので急いで靴屋さんに行って新しい靴を買ってようやく教会に行き、洗礼を受けることができました。娘さんは「無事に洗礼が受けられて良かった! とても楽しい気持ち! 」と喜びが溢れ、笑みが絶えませんでした。彼女のこれまでの表情とは全く変わり、別人のようでした。

カトリック要理には「洗礼とは、人が神の子として新たに生まれる秘跡であり、イエス・キリストの定めで洗礼は救いを得るのに必要である。イエスが、人の罪を赦し、成聖の恩恵を与えるために洗礼の秘跡を定められた」とあります。洗礼によって私たちは神の息子、娘となります。使徒パウロはテトスの手紙で次のように語っています。「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、・・・・・この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」(テトス2:12, 3:5-6)

イエス様が宣教に向けた生き方(公生活)を始められるとき、一番最初になさったのが、洗礼者ヨハネの所へ行き、彼から洗礼を受けられることだったのです。イエス様が洗礼を受けられた時、不思議な現象が起こりました。一つは「天が裂けて」とありますが、想像するに大空が動いたのでしょう。それから「霊が鳩のように」現れて、イエス様の上に降って来たのです。聖書に言葉によると、これは聖霊がイエス様の上に降ったという意味です。もう一つは天からの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声です。

洗礼を受けるときに受洗者は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というこの言葉を心に聞いているのではないでしょうか。まったくその通りだと思います。受洗者は神のみ心に適う者となり、すべての罪は赦され、「わが子」と神から言われるのです。だから洗礼を受けることは、一生涯で最も偉大な出来事であるはずです。洗礼を受けてよかった、あるいは、信仰の道を歩むことは時には試練があったり、難しかったとしても、やはり最後には洗礼を受けてよかったと思えるはずです。私たちは洗礼を受けた時のことを度々思い出さなければなりません。

洗礼の時に私たちは、神の愛のうちに沈められます。私たちのために天はいつも開いています。日常生活を通して、イエス様を歓迎することが容易になりました。妬み、不正、暴力、罪によって酷く傷ついているこの世界を父なる神は熱情的に愛しています。この愛のゆえに神はご自分の子イエスを私たちに与えました。イエス様と共に、永遠の命に全人類を引き寄せるように私たちは招かれています。聖霊が私たちを教え導き、守り、私たちの心を愛と慈しみで燃え立たせてくださいますように。アーメン。

【1月3日 説教】B年「主の公現」

  • 第1朗読 : イザヤ書60章1~6節
  • 第2朗読 : エフェソ書3章2,3b,5~6節
  • 福音朗読 : マタイ福音書2章1~12節

クマール・プラビン神父

今日は「主の公現」の祭日です。また、新年の最初の日曜日にあたります。皆様、明けましておめでとうございます。教会は本日のミサ典礼を通して、主イエスの誕生という最も不思議な出来事を、私たちがもう一度思い出すよう招いています。私たちはすべての人間の中に共にいてくださる神の栄光を讃えて一緒にお祈りをしたいと思います。

今日は主の公現を祝っています。主の公現とは漢字で「公現」、すなわち、「おおやけ」に、「あらわれる」と書いて、主である神の栄光が「公に現れた」、このことをお祝いする主日です。主のご降誕の日、天使のお告げによって羊飼いたちがベツレヘムにやってきましたが、彼らは個人的に幼子イエスをあがめ、賛美し、喜んで帰りました。一方、東方で珍しい星を見た博士たちは、「この星は救い主が生まれることを示しています。さあ、会って神を拝みましょう」と言って、星を捜し求めました。彼らはエルサレムまでやって来て「東方の異国で救い主の誕生を告げる星を見たので拝みにきた」とエルサレムの人々に尋ね廻りながら、新しく生まれた「幼子イエス」のことを公に現わしました。

今日の主の公現の祝日は私たちに様々なことを教えています。一つ目は、エルサレムやベツレヘムまで星に導かれてやって来たのは、ユダヤ人ではなく、はるか東の国の博士たちだったということです。彼らは星が輝くそのもとに生まれたばかりのメシアを尋ねあて、礼拝しました。2000年前の博士たちが星に導かれたように、現代に生きる私たちもまた、キリストのもとへと導かれているのではないでしょうか。私たちの信仰生活の中にも、何かこの星の光のようなものがあるのではないでしょうか。私たちはみな、信仰の光に導かれてイエスを信じています。イエスが「神の子」として、私たちのためにこの世においでになったことを信じています。

マザーテレサは語ります。「聖体は、地上でのキリストの受肉の継続です。聖体の神秘は私たちに毎日クリスマスを過ごす喜びを与えてくれます。私たちが毎回聖体訪問をするとき、それはベツレヘムに来ているのと同じです。『ベツレヘム(tabernacle)』とは『パンの家』を意味します。つまり、それはご聖櫃のことです。『生きているパン』であるイエス様は、私たちと永遠に一緒に住むために、ベツレヘムで生まれることを選びました。羊飼いと博士たちのベツレヘムでの謙虚な訪問は、幼子イエスに大きな喜びをもたらしたのです。だから、彼らの訪問は何世紀にもわたって賞賛され、幾度も語られてきました。神はベツレヘムで御子を敬った彼らを敬うことを決して止めません。私たちのご聖体への謙虚な訪問も、イエス様に大きな喜びをもたらすので、神は私たちを敬い、祝福してくださいます。」

二つ目は、「博士たちがベツレヘムに行く途中、星がもう一度現れた」と福音書に書いてあることです。つまり、星はどこかで一度消えてしまい、ベツレヘムの近くになるともう一度現れました。それが「博士たちが喜びにあふれた」わけです。私たちが信仰の道を歩む上でも、いろいろな場面で星が消え、現れるのを実感します。日々の生活の中には、例えば、富、身分、権力のように、私たちを迷わせるものがあります。私たちの進む道に障害となるものがあっても、それを乗り越えて、主の光に照らされた道を歩む必要があります。

私たちが「主の公現」を祝っている今日、誘惑の光ではなく、「信仰の光」に照らされて、私たちの生活の中で主による光がどれほど輝いているかを確かめなければなりません。考えてみれば、これは何という良いチャンスでしょうか。心で捉える信仰の光によって、私たちはキリストのところへと導かれています。博士たちが星の光に従って幼子と母マリアのいる場所へ確実に導かれたように、信仰の光は主イエスへの道を照らし、ときに迷うことがあっても確実に主キリストのもとに到達することができるからです。

今日、主の公現を祝い、東方の博士たちがイエス様のところに導かれたことを思い起こしながら、私たちも信仰の光によって導かれていることを確認し、また、確信を持って「信仰の光」の道を歩み続けましょう。 

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